DDMM.

Top!





新垣里沙を襲った逆風について




痛井ッ亭。 itaittei.


逆風について語ること

 5期加入当時の苛烈な逆風──5期に対する、とりわけ新垣里沙に対する──は、長らく語りえないことだった。「新垣里沙は何故過酷なバッシングを受けねばならなかったのか」それは、モーニング娘。の長い歴史の中で最大の問題の一つでありながら、しかし、公的には──おそらく今後も永遠に──語られることのない問題であり続けている。
 語りえない事情とは、それを語ることが、新垣里沙を(そしてモーニング娘。を)傷つけ苦しめてしまうことになる、ということだが、新垣里沙が苦境を見事に乗り切って、活き活きとモーニング娘。の中心で活躍している現在、それは遠く過ぎ去った過去、完了形で語りうる過去になったといえる。彼女は戦い続け、そして、生き残った。もっとも、今もなお、「狼」のような誹謗中傷が荒れ狂う場では、心無い攻撃は続いているとはいえ、それは他のハロプロメンバーの場合とほぼ変わらないレベルにとどまり、むしろ彼女を賞賛する声が、確実に力を増している。客観的な障害はほぼ解消したと考える。
 もう一つ、わたしにとってこの問題を語り難くしている主観的事情がある。それは、逆風の中で5期メンたちが苦しんでいる当時、わたし自身は、その苦しみを5期ヲタとして心底共有することはできなかった、という事情である。この問題を語る資格など自分にあるだろうかという疑問は今も尚つきまとうが、今現在のわたしは新垣里沙に限りない感謝を感じているし、尊敬しているし、共感を覚えるし、亀井絵里的なニュアンス込みで「ガキさんが、スキダカラ」と言い切っても過言ではない(……)、その限りにおいて、主観的にも、彼女の辛い過去、果てしなく暗く悲劇的であったこの不幸な出来事のことを記述することが、かろうじて容認できるのではないか、と考える。
 また、新垣里沙自身が、極めて間接的な表現ながら、「わたしが本当に辛かった時」が、事実あったことを、自らの言葉で認めていることからも、このタブーの封印を解くことは、許されていいように思われる。

5期メンバー加入までの歴史的変遷

 まず5期加入までの、モーニング娘。の歴史を、駆け足で復習する。テレビ東京のオーディションバラエティ番組の中の「企画物ユニット」として、「イロモノ扱い」で出発。当人達は多かれ少なかれ、自分達の「ダサさ」「垢抜けなさ」を自覚していた。作り手の側も、「紅白に出て、そして解散」「一年持てばいい」と考えていたし、矢口真里は「三年後には自立して活動できるよう、身の振り方を考えなさい」と言われていたと、最近になって発言している。ところが、後藤真希の加入、『LOVEマシーン』という楽曲との出会いによって、瓢箪から駒、一気に「国民的アイドル」の地位に押し上げられる。「ださカッコイイ」という価値観の提唱と時代の空気とが同調することによって(私見)、モーニング娘。は、一夜にして「全国区」の存在、時代の寵児となった。ここからが本論にとって重要だが、この時点で、当初の特徴であった「イロモノ性」は抑圧されはじめ、後退していったのだった。押しも押されもせぬ「アイドル」への、メジャーへの、隙間産業からメインストリームへの変貌。その過程で、ファン(モーヲタ)を形成する大衆の傾向も変化した。「3期加入の時点で、大勢のファンが離れていった」という証言もある。そしておそらく、メジャーアイドル化を単純に肯定しないファン層が撤退するのと入れ替わりに、「メジャーだからこそ執着する」という新たなファン層が多数を形成するに到る。そして、モーニング娘。の存在性格は、既存の秩序や勢力地図に風穴を開けようとする革新勢力から、保守的存在へと変質=反動化した。これは「ニッチ商品」から「王道=定番」への変化に伴う、必然的な変質であったろう。畢竟「国民的アイドル」とはそういうものなのだ。巨人大鵬玉子焼きモーニング娘。という、誰もが愛好できる、間口の広い、安全な「アイドル」。このメジャー化傾向は、4期加入においても、拡大、継続する。そして「ミニモニ。」の大成功と共に、モーニング娘。は「社会現象」化した。
 私見では、モーニング娘。というユニット自体の勢いの頂点は、中澤裕子の卒業公演(2001.4.15)の時点であったと思われるが、「社会現象」としての勢いはまだまだ衰えを見せなかった。その勢いは例の「ハロプロ構造改革」(2002.7.31)の時点でも十分に圧倒的でありつづけ、「不況時代に一人勝ちを続ける怪物」「モーニング娘。をみれば現代がわかる」などという言葉が説得力を持って流通していたし、実業界でも「推進すべき企業リストラクチャーの象徴」としてハロプロ構造改革や、流動的な組織(ユニット)のあり方が賞賛され、新聞の経済欄にまで、大々的につんく♂Pのインタヴューが掲載されもしたのだった。沸騰するモーニング娘。ブームの真っ只中で、5期メンは加入してきた(2001.8.26)。

5期メンバーの加入

 ところが5期の四人は、3、4期の「メジャー路線」を継承するメンバーではなく、むしろまったく異なる戦略と、方向性を持った人選によって選出された四人だった。その選抜にはさまざまな理由や目的があったことだろう。わたしはかつて、その意図を、モンスター化した存在の中に当初の「普通の少女の存在感」を取り戻す試み、モーニング娘。の先祖還りの試み、と捉える仮説を提出したことがあった。仮説の是非はともかく、結果的に、5期の四人は、4期とはあまりに対照的な、地味で、まじめで、目立たない、「普通の女の子の空気感」を湛えた存在になっていた。個性を出せない四人の人気にはなかなか火がつかなかった。4期までの個性溢れるメンバーたちにより、メディアの寵児として君臨し、モンスター化していたモーニング娘。の中に、「ど素人」の少女達がいきなり加入して来て、そこで埋没するな、萎縮するな、と要求するほうが無理難題であったようにさえ思える。既存メンバーのなかに溶け込むにはあまりにも大きな壁が存在した。そして同様に大きな壁が、ファンの側の心理にも存在していたように思われる。既述したとおり、メジャー化に従って巨大に膨れ上がったファン層は、基本的に保守的な集団と化しており、「黄金の9人体制」を最善とし、現状を肯定し、変化を拒絶するような抜きがたい傾向を持っていただろう。5期に期待を寄せ、熱狂するファンは、比較的少数派にとどまり、むしろその逆の「空気」が、支配的となっていく。5期への拒絶、「5期叩き」への抗い得ない「空気」が醸成される(後になっても、初期からの熱心かつ良心的なファンですら、自らの中に「5期の壁」があることを語っていたものだった)。反感は、爆発の機会を探してうごめいていた。その反感の矛先が、5期の中でも最年少の、一番立場の弱い存在へと向けられることは、ほとんど必然のことであっただろう。そこに、折悪しく不運な事情が見出され、「コネ疑惑」という物語が形成される。新垣里沙は、オーディション番組のスポンサー企業のCMに少女モデルとして出演していたというのだ。冷静に判断するならばCMにモデルとして出演することがオーディションにおいて有利に働くようなコネクションたりうるなどとは考えられない。しかし「コネ」という言葉で大義名分を得た反感は、己を正当化する道具を手放さず、それを過大に吹聴することで、とめどもなく己の勢力を増していった。モーニング娘。は素人がオーディションで見出され奇跡的な夢をかなえる存在であらねばならず、CMモデルとして芸能活動を経験した者が合格するのはモーニング娘。の本質に悖るのだ、という論理が、それに追い討ちを掛ける。かくして完璧な正当化論理を手にした反感は、誰はばかることなく吹き荒れ、加速度的に膨張し、新垣里沙に向かって牙を剥いた。

「構造改革」そして、「タンポポ」不買運動

 加入から一年近く経過しても、5期メンの人気のほどは、先輩達に遠く及ばなかった。そして青天の霹靂のように「ハロプロ構造改革」(2002.7.31)が発表され、人気メンバーの卒業予定や、主要な「ユニット」のメンバー交代(人事異動)が公表された。黄金期を支えた重要メンバーが、モーニング娘。本体や、花形ユニットから退場するのと入れ替わりに、未だ人気も実力も伴わない5期メンが空いた席に座ることになった。それはまるで、漫画『エースをねらえ!』(山本鈴美香)で、ぱっとしない一年生の岡ひろみが、宗方コーチの独断で代表選手に抜擢されたのと同様に、周囲を動揺させ、激しい嫉妬を生んだ。殊に、飯田圭織は「命に代えても惜しくはない」とまで明言していた「タンポポ」のメンバーから外された悔しさを、全身に顕わにしていたと言ってよい。その「納得できない」という思いはメンバーに激しく感情移入したファンたちの間にも瞬く間に燃え広がった。5期全員が花形ユニットに収まった事は「既存メンバーの思いを踏みにじる暴挙」「事務所のゴリ推し」と捉えられた。多数を形成するファン(モーヲタ)の中には既に「メディアによって理不尽に与えられる試練とそれに踊らされるメンバー」という設定を楽しんだり、「生暖かく見守る」ようなクールな態度はなかった。頂点を極めたモーニング娘。は絶対であり、永遠でなければならず、5期はモーニング娘。の中にいながら、「モーニング娘。」の敵役として敵視されたのだった。
 「ハロプロ構造改革」は、折りしも日本を席巻していた「小泉流構造改革路線」の安易なパロディー、表面的な話題づくりではなく、ハロプロは栄光の上に胡坐をかくことなく、新しい血を入れつつ、若い世代へとバトンをつなぎ、変化と流動性を恐れず、これからも拡大を目指していくのだ、という意思表示であっただろう。だが、ファン側の大勢は、その宣言を歓迎しなかった。むしろ、ファン側が栄光に酔いしれるあまり、それにしがみつき、変化を恐れ、拒否反応を示したのだと考えられる。従って、このとき既に、多くのファンにとって、構造改革を「悪夢」「この世の終り」のようなものとして捉えることは、ごく自然なことだった。そのような空気の中で、三流ゴシップ雑誌を執筆舞台とする某ライターが発案した「ハローマゲドン」なる言葉が、「ハロプロ構造改革」の代名詞として一部のファンのなかに浸透していった(それがいかに不適切な表現であるかは既に別の機会に述べている:わたしが使わない言葉についてを参照)。
 おそらくいつの時代にも、大衆には、他人の不幸を拡大解釈してより悲劇的に彩りたいという潜在的願望が潜んでおり、モーヲタもその例外ではない。4期によって到達した完璧な存在としてのモーニング娘。は、冴えない5期の梃入れのために、滅茶苦茶にされてしまった、というファン心理が、飯田圭織の意気消沈した姿への同情によって燃え上がり、ほとんど必然的ともいえる経過を辿って、モーニング娘。の歴史上最初にして最大のファンによる抗議行動『タンポポ祭』という最悪の記念碑的出来事へと収斂していく。もちろんこれは、多くの純真なファンにとって「飯田さん、矢口さん、加護さん、タンポポ卒業おめでとう」という純粋な感謝の気持ちから出た行為ではあっただろう。だが、それにとどまるものではないのだ。『タンポポ祭』が、ファンの側から発案された初のサイリウム企画としてあれほどの成功を収めた(収めてしまった!)のは、それが事務所による理不尽な「構造改革」(=ハローマゲドン)への抗議行動、事務所の方針に対する反対の意思表示、いわば示威行動だったからに他ならない。ファンによる自発的行動である『タンポポ祭』と、新生タンポポへの『不買運動』とは、論理的に一貫しているのである。モーニング娘。のコンサートにおけるサイリウム企画の起源が、かかる悪夢的側面を有しているということに自覚的なファンは、今日ほとんど存在しないと言ってよいだろう。なにしろ『タンポポ祭』それ自体でさえ、「素晴らしい出来事」「伝説的イベント」として賞賛され、美化されつづけてきたようなヲタ界隈なのだ。
 紺野あさ美と新垣里沙という5期メンバーを加えた「新生タンポポ」は、不幸にも史上最大の逆風によって迎えられた。その唯一のシングル曲『BE HAPPY 恋のやじろべえ 』は、永井ルイの編曲を得た名曲であったにもかかわらず、「新生タンポポ」が2枚目のシングルをリリースすることはついに叶わなかった(ただし「不買運動」そのものに、どれほどの影響力があったかは定かではない)。この「新生タンポポ」に新垣里沙が加入していたこともまた、彼女にとっては不幸な偶然の成り行きであったと言えるだろう。

スケープゴートとしての新垣里沙

 おおよそ以上のような経過を辿り、新垣里沙をスケープゴート(犠牲の羊)とする空気が醸成され、その流れは確定的になったと考えられる。モーヲタ(モーニング娘。のファン)は、決して単一の共同体ではなく、複数の相矛盾する価値観や動機を持つ多様な共同体──しかも緩やかで曖昧な──の複合体であり、事態は単純ではないが、かなり大きな共同体の部分において、新垣里沙のスケープゴート化が推し進められようとしていたとはいえるだろう。
 虐げられた大衆は常に血祭りに上げるべき対象を探し求めている、そうして、ファン=モーヲタ=大衆はその対象を発見し、その対象へ向けて残虐な攻撃性を解き放つ。大衆は、夢の存在であるスターに熱狂すると同時に、無意識では己の執着の対象であるスターを憎悪する。大衆は、スターがその座から引きずりおろされることを熱望し、その不幸を望み、暗い喜びに打ち震える。スターの悲劇は大衆にとっての蜜である。大衆は、己の不幸、輝かしい人生から追放されてある己の悲惨さを、堕ちた偶像へと投影する。それゆえ大衆は、なんでもないことにまで目ざとく悲劇の種を見つけ出しては、しばしば希望の壁を絶望の絵の具で塗りつぶそうと画策する。モーヲタ=大衆もまた例外ではない。「構造改革」が、後藤真希卒業が、安倍なつみ卒業が、どれほど悲劇的な調子で語られたか、その例は枚挙に暇がない。この文章自体もまた、そのような歴史の「物語化」「悲劇化」に加担しかねないことを、強く警戒しなければならない由縁だが、この文章の目標はそのような過剰な悲劇化で新垣里沙の歴史を暗く彩ることにあるのではなく、まったく逆に、不当なスケープゴート化運動の徹底的な告発と、モーヲタとしての自己批判の共有へと向かう点にこそあるのだということを、改めて確認しておきたい。
 では、新垣里沙の「スケープゴート化」は、何故起こったのか。その理由、ファン側の動機とは何か。そして、それは何に貢献したのか。その機能とは何か。いくつかの点について考察してみたい。
 第1の理由は、「戦犯探し」である。何の戦犯か。モーニング娘。凋落の。中澤裕子卒業後の9人体制こそが「黄金」であり、すなわち完璧であるとするなら、そこに加入してきた5期は、それ自体完璧を汚すもの、破壊分子と見なされる。旧秩序を愛する者の心のうちには、高く堅牢な「5期の壁」が万里の長城のごとく張り巡らされ、5期メンバーは「壁」の外へと追放される。そのような意識の中では、5期の存在自体が凋落の開始そのものであり、すなわち凋落の戦犯であると見なされる。不満、些細な不出来、気に入らないことのすべての原因を「5期=戦犯」に求めるならば、何が起ころうとも「4期以前=黄金」を汚す必要はなくなる。その純粋性、至高性は護持され、結果、「モーニング娘。は最高」「モーニング娘。は永遠」というおめでたい幻想が維持される。その幻想は、必然的に現実とは乖離する。そのことの不快さが、ますます犠牲者への攻撃として発散される。このようにして、5期全体が「犠牲の羊」とされ、とりわけ、その中でもっとも弱い立場(最年少)にあった新垣里沙へと攻撃が集中することになった。
 第2の理由は、新垣里沙の純粋さであろう。人間の根源的な暴力現象を考察する今村仁司は、純粋な者ほど犠牲の羊(スケープゴート、ブク・エミッセール)にされやすいという事情を指摘している。新垣里沙は、ある意味で、まさに純粋な存在であった。そもそもモーニング娘。とは、ソロシンガーを目指す、縁もゆかりもない5人によって結成された緊張感溢れるユニットだったが、それに対して新垣里沙と言えば、既に一世を風靡する夢のようなアイドル「モーニング娘。」に純粋に憧れる少女として、「モーニング娘。になりたい」と願い、そしてその少女らしい純粋な願いを実現させた稀有な存在だった。しかも選抜された理由として「モーニング娘。が大好きだという気持ちが伝わってきた」と、つんくPが語るほどに。そして、そのような純粋さに対しても、大衆の暗い憎悪や嫉妬は向けられる。なぜなら大衆の多くは、薄汚れて希望も見えない現実と妥協しあい、己を限りなく低め、諦めを友とし、自己嫌悪をボロ布のように身にまとって暮らしている存在だからだ。純粋な憧れを実現したユートピア的存在は、それだけで嫉妬と攻撃の対象とされるに充分な理由があるのだ。
 第3の理由は、第2の理由を別の側面から表現したものだとも言える。それは、彼女が「モーニング娘。/モーヲタ」という不可侵の境界線を侵犯した、ということである。「モーニング娘。/一般人(モーヲタ)」という身分的階層秩序の固定化・安定化を求め、「国民的アイドル」へと祭り上げられたモーニング娘。にただひたすら平伏し、跪拝し、絶対的隷属を求める保守化したモーヲタにとって、モーニング娘。は決して手の届かない至高の存在でなければならないのだとすれば、正真正銘のモーヲタでありながら自らモーニング娘。になった新垣里沙は、超えてはならない境界線を侵犯したものとして、禁忌に触れたのだと看做されよう。それゆえに、彼女は断罪されねばならなかったのではないだろうか。
 新垣里沙のスケープゴート化は、凡そ以上のような機能を果たすべく大衆によって無意識的に要請されたのだと思われる。今村仁司によれば、第三項排除(=犠牲者の創出)によって、社会集団における秩序が形成・維持される、という。そして、その排除される第三項とは、スケープゴートに等しいとされる。だとすれば、モーヲタたちは、「アイドル対ファン」「モーニング娘。対モーヲタ」という社会的関係の変動過程(=メンバーの加入卒業、増減)において、新垣里沙を排除される第三項として弾きだすことで、上に述べたごとき、「秩序」や「安定的価値」を守ろうとしていたのかもしれない。すなわち、「モーニング娘。/モーヲタ」という身分的階層秩序の固定化・安定化と、日本の大衆文化を征服した「国民的アイドル」という幻想(モーニング娘。を全アイドルの、ひいては大衆文化現象全体の頂点に据えた、文化的秩序の幻想)とが、維持、固守されようとする。およそ人間の構成する社会関係や秩序とは、すべて共同幻想、フィクションに他ならないが、当時のモーヲタにおいては、「モーニング娘。は日本を制覇した」という全能感が共有され、それに基礎付けられるモーヲタによる多幸症的擬似共同体が成立していたと言えるだろう。しかし、その想像的共同体の秩序、安定は、すでに目に見えない形で進行していた緩やかな凋落の気配に脅かされており、幻想の秩序を死守するために、排除される第三項=スケープゴートを生贄にすることが求められていた。そして、モーヲタ大衆は、その犠牲にもっとも相応しい存在として新垣里沙を発見したのだった。「モーニング娘。/モーヲタ」という二項対立によって形成される秩序から、新垣里沙は第三項として排除されねばならない。

 吹き荒れる逆風は、ただ、黙ってやり過ごすしかない。そのような事態はないものとして、笑顔の裏に涙を隠しつつ、ただ、時がすべてを解決してくれることを信じて、じっと耐えるほかはないし、また事実そうすることだけが正しい対処法でもあった。しかし不幸なことに、モーニング娘。であると同時に真性のモーヲタでもあった新垣里沙は、やり過ごすことの出来ない「内なるバッシング」とも呼ぶべき感情を、バッシングに加担したファンの歪んだ価値観を、自らもまた共有していたのではないだろうか? その事情が彼女を襲った悲劇の困難さをより一層強めてはいなかっただろうか?
 吉澤ひとみ卒業公演で彼女が語った「わたしの知っているモーニング娘。」とは、彼女が加入する前の4期までのモーニング娘。を意味する。だからこそ、吉澤の卒業は、「わたしの知っているモーニング娘。」がいなくなってしまうことを意味した。新垣里沙にとっても、5期以降とは、そして自分自身とは、「わたしの知っているモーニング娘。」とは違う何者かであった。新垣里沙の心の中の「5期の壁」が、「わたし自身は、わたしの知っているモーニング娘。ではない」という恐るべき観念、自己否定的な観念を形成する。その観念への恐怖と拒絶が、逆に、新垣里沙において「わたしはモーニング娘。でなければならない」「わたしはモーニング娘。である。そして、モーニング娘。はわたしである」という、ほとんど宗教的な信念、熱烈な信仰となって現れる。まるで、その信仰にすがらなければ、彼女は、あの眩しい光が常に降り注ぐ場に立ち続けることが出来ないのだ、とでも言うかのごとく。
 新垣里沙は、外に吹き荒れる逆風と戦いつつ、同時に、自らのうちなる逆風「モーニング娘。というイデオロギー」とも戦わねばならなかった。その二面的闘争の過酷さにも関わらず、彼女は挫折しなかった。それは、「5期の壁」の観念が、栄光のモーニング娘。を絶対化することに貢献するようにみえながら、実は、モーニング娘。の本質に反するものであることを、彼女が直感的に把握し、モーニング娘。の本質そのものに勇気付けられていたからであろう。新垣里沙のスケープゴート化によって求められたものは、モーニング娘。の本質に背く秩序であった。モーニング娘。は、本質的に、流動的な存在、常に新たな息吹を送り込むことによって、新陳代謝を繰り返す存在である。分子生物学者福岡伸一によれば、生命とは、エントロピーの増大する速度を超えて、自らを破壊し常に作り変え続ける作業によって、その生命を維持するシステムである。「万物は流転する」「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」という東西の古い言葉は、ともに生命の本質を表現していたと福岡は言う。そのような生命の本質を自ら体現するモーニング娘。という組織体にとって、「5期の壁」を築き上げて流動性を疎外するような振る舞いは、その本質に反することなのである。従って、新垣里沙が、バッシングの存在を決して認めなかったことは、モーニング娘。の本質に照らして正しい行動であったし、同時に、生命そのものの摂理にかなう態度でもあった。バッシングに加担したファンが無意識に欲望していた機能を、当のバッシングが果たすことは決してなかったし、同じような動機に導かれる「戦犯探し」「叩き」が、モーニング娘。対して有効に機能することは、過去にも、また今後も、ありえないことなのだ。

過去を乗り越えて

 試練の時を逞しく生き抜いた新垣里沙は今、そんな過去があったことすら忘れさせるほどに、自信に満ち溢れ、アイドルとしての魅力を全方位的に発散している。しかし一部モーヲタの「戦犯探し」へと向かう心理傾向には根強いものがあり、新たな犠牲者を求める動き、匿名掲示板などで展開される不遇な「アンチ活動」は、今も続いている。すべては必然的に凋落するという過酷な盛者必滅の摂理を直視できない脆弱な精神が、不可能な永遠を渇望する幼稚さが、夢見がちで軟弱なセンチメンタリズムが、その根底にはある。モーヲタが強靭な精神を獲得してこれらを払拭しえて初めて、新垣里沙の不幸な経験は昇華され、モーヲタにとっても完全に過去のものとなりうる。しかしその実現が途方もなく困難である以上、ここに述べたハロプロ史上最悪の悲劇は、ハロプロの公式な歴史としては決して語られることのない暗黒の歴史にとどまり続ける他はなく、新垣里沙本人の口からいつの日かこのことが語られることもまた望み得ないだろう。『ハロー!プロジェクト大百科』(2004.2.13初版発行)に収録されたアンケートの「今までで一番辛かったことは?(ハロー!プロジェクトのメンバーになって)」という質問項目の回答欄を埋めるにあたって、誠実な彼女は「なし。」と嘘を書く事もせず、適当に当たり障りないことを書いてお茶を濁しもせず、その深い苦悩と心に負った深手の惨たらしさを、あえて空欄を残すことで、空白の空虚さの中に密かに書き記していたのだった。長い間その出来事は、彼女の心に常に棘のように突き刺さりつつ、触れれば鮮血が噴出す生乾きの傷でありつづけ、彼女にそれを語ることを許さなかった。彼女が自身の口からそれについて語ったのは、おそらく「Hello! Project 2006 Summer 〜ワンダフルハーツランド〜」(国立代々木競技場第一体育館、 2006.7.23)、5期の盟友紺野あさ美と小川麻琴のモーニング娘。卒業公演においてであったと思う。「わたしがほんっとに悩んでいる時とか、ただそばにいるだけで、話を聞かなくても、ずっと隣にいてくれたりとか、……さり気なく、話を聞いてくれたりとか……ほんとに、二人にはいっぱい助けられたし、…ほんとにいっぱい支えてもらって」大量の涙とともに彼女はそう語ったのだった。5期の四人がともに歩む歴史の終りとともに、新垣里沙は、自らの悲劇の歴史をも埋葬しようと決意していたのだろう。だからこそ、「悩んでいる時」という言葉とともに唯一度限り涙を流すことを自らに許し、このことではもう二度と泣くまいと涙を封印したのではないだろうか。
 その後の彼女は「不幸な5期の末っ子」という自己イメージを払拭し去り「強いお姉ちゃん」──後輩はもちろん、同期で年上の高橋愛に対しても!──という立ち位置を、果敢に引き受けはじめた。その頼もしいお姉ちゃんぶりは時として過干渉的な母親風のおせっかい的ニュアンスさえ滲ませつつも、しかしかつてリーダーとなった飯田圭織が後輩を立てるために後ろに下がって自分の個性を殺したのとは対照的に、能動的で明るく魅力に満ち溢れている。新垣里沙は自らも積極的に輝きながら、それにも増して献身的に後輩を輝かせ、その魅力をファンに伝え続ける。「サブちゃん」(実質的リーダー?)としてモーニング娘。を中心で支えながら、彼女は、あの幼い頃の「モーニング娘。が大好き」という純粋な気持ちを失わず、誰よりもモーニング娘。を面白がるコアなモーヲタでありつづけているかのようだ。

救いとしての亀井絵里 ぽけぽけぷぅが指し示す未来

 その彼女が現在もっとも愛する後輩、彼女自身ラジオで特別な感情を抱かせる存在と呼んで憚らないのが、われらが亀井絵里であり、「かめ」こそ「ガキさん」のモーニング娘。愛の恩恵に誰よりも与っている存在だと断言しても構わないだろう。しかし同時に、そんな「かめちゃん」もまた、「ガキさん」に支えられ、愛されることで、逆に新垣里沙を支えていると言えるかもしれない。「かめ」にツッコミを入れること、茶化すこと、からかうこと、笑うこと、どんな些細な言動も見逃さずに、「かめ」の「かめっぷり」を指摘し、その魅力をファンに伝道することは「ガキさん」にとって無上の喜びなのだ。「ガキさん」の「かめ」に対するかゆい所に手が届く愛あるツッコミは、決して「ぽけぽけぷぅ」を否定するのではなく、逆に、そのままでいてほしいという気持ちにあふれている。そのことを彼女はしばしば言明してもいる。「かめはぽけぽけしてるぐらいがいい」と。
 さらに言えば、「かわいがられ担当」で「テキトー」で「オンナ版高田純次さん」で「寒キャラ」で「KY」で「ぽけぽけぷぅ」な「かめ」の言動に触れて、呆れたり、笑ったり、「え、うそぉ」「こらー」「むっかー。ぴきぴきー」とリアクションするとき、新垣里沙の心の奥底には「わたしだってできればこんなアホキャラで行きたかった」という思いがないだろうか。激しい逆風に立ち向かい、両足を踏ん張り、「負けるな」を自分を鼓舞し、誰よりも真面目に仕事に取り組み、「しっかり者」であれと自ら叱咤激励し続けてきた自分と見比べて、目の前で眠そうな柔らかい笑顔を見せている存在の、ふにゃふにゃした、ぬくぬくとした、自然体のあり方、緊張感が足りないんじゃないかとすら思える自由すぎる個性に、羨望を感じてはいないだろうか。「かめってさ、ほんと空気読めないよね」と言うとき、新垣里沙は「ちゃんと空気を読むこと!」と言いながら、実のところ、敢えて空気を読まずに「寒いギャグ」「偽悪的なキャラ」「度が過ぎるぶっちゃけ」「アイドルとしてどころか人としてどうなの?と言いたくなるようなだらしなさ」といった過激な個性を、大胆に表現できる亀井絵里の強さに、眩しさ、憧れ、あるいは嫉妬のようなものすら感じてはいないだろうか。モーヲタ=大衆=世間から後ろ指をさされないようにひたすら「空気を読む」ことを処世訓としてきた新垣里沙にとって「敢えて空気を読まない(AKY)」という態度はほとんど想像の埒外にある。
 新垣里沙を叩いたのは、謂わば「空気」である。「空気」は責任を取らない。なぜなら責任の所在(主体)が存在しないのが「空気」なのだ。実に日本的な曖昧さで「空気」は支配=抑圧=差別し、その「流れ」に同調するように人を圧迫する。新垣里沙は「空気」の恐ろしさを嫌というほど叩き込まれている。そしてファン=大衆という存在が、実にしばしば「空気」によって流される不確かな存在であることも、深い諦念とともに確信していることだろう。だからこそ彼女は過剰なまでに「空気を読みなさいよ」と可愛い亀井絵里に注意するのだろうか。空気を恐れるべきことを教えようとするのだろうか。「空気」を恐れない亀井絵里の強さ、それどころか逆に「空気」を読まないことで「世間」を逆手にとって遊んでみせさえする亀井絵里のしたたかさに憧れ、羨ましく思いつつも、やはり可愛い後輩で、同い年で、真の理解者でもある「かめ」のことが心配でたまらないのかもしれない。
 ガキさんに同じく「かめ」のことが大好きな我々にとっても、亀井絵里は色々な意味で心配な存在だが、それに負けず劣らずガキさんの未来も心配ではある。新垣里沙の現時点での問題点は、おそらく、「モーニング娘。」に対して忠実でありすぎるあまり、それを絶対視しがちな点にあり、従って彼女の課題は、いかにしてモーニング娘。の存在を相対化し、モーニング娘。から自分自身を相対化するか、という点にあるだろう。その点「モーニング娘。の亀井絵里としてではなく、ひとりの亀井絵里として」という言葉を堂々と発することのできる亀井絵里は、モーニング娘。以後の自分、既にモーニング娘。ではなくなった自分、という未来像をはるかにしっかりと見据えているように思える。5期加入時の熱狂状態と比べ、6期加入時点においては、かつてあれほど世の中を席巻した「モーニング娘。という社会現象」は、一過性のブーム、大衆文化の夜空を一瞬鮮やかに彩る大輪の花火に過ぎなかったことが明らかになりつつあった。モーニング娘。が「国民的アイドル」という幻想のうえに胡坐をかいていられる時代は既に終り、より戦略的に生き延びる道を模索する時代が始まっていた。「国民的アイドル」であることの重圧に押しつぶされそうになりつつもがき苦しんだ5期に比べれば、6期の四人はそれぞれに個性的に、したたかに、有効な戦略を模索しつつ生きてきたと言ってよい。負うた子に背負われる、のことわざではないが、ここでは後輩の6期のほうが先輩の5期に対して未来への道を指し示すという逆転現象が見られる。
 新垣里沙は、「モーニング娘。卒業」とともに華やかな世界からフェイドアウトする気がないのであれば「モーニング娘。の新垣里沙」には収まらない自分の個性を見つけ出し、育て上げ、明確に表現し打ち出していく必要がある。中澤裕子のように、長く大衆から支持を受け、愛されて、幅広くメディアで活動できる人と、ハロプロという保護区域の中でしか活動できない人との違いとは何か。それは「アイドルに対する批判的な視点」「モーニング娘。を相対化する視点」を自分の中にいかにして構築するか、という課題であるはずだ。その課題は大きい。彼女が「モーニング娘。以後」を芸能人として生き抜こうとするなら、その未来には、決して小さくはない困難が、あるいは待ち受けているのかもしれない。だが、モーニング娘。に純粋にあこがれて、自ら、モーニング娘。になるという快挙をなしとげた彼女、そして誰よりも過酷な試練を耐え抜いてきた彼女には、どんな困難でも乗り越えることのできる力が、笑顔で未来の扉をこじ開ける力がある。新垣里沙の未来には、無限の可能性がある。

 ──以上は、モーヲタ社会哲学的(?)な観点からみた一つの仮説にすぎない。最後の章に到ってはかめヲタの妄想にすぎないとも言えよう。だが少なくとも、非道な仕打ちがかつて存在し、今も、ほぼすべてのメンバーへの様々な形でのバッシングが世間に存在することは、悲しいかな、紛れもない事実である。「バッシング」「スケープゴート化」「戦犯化」「叩き」が、いかに自己中心的な動機に導かれており、そして、何一つ幸福をもたらすことがないか。それを、モーヲタとして、モーヲタである自分自身に対して、改めて確認したい。それこそ本稿が希望する本稿自身の唯一の存在正当化事由だからだ。

(了)
[2008.4.2]