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déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築

Top!

黄色と白 倫理的ということ

ここに二つの文章がある。それを引用してみる。

『ただ、水を挿して悪いのですが、ファンが心を重ねたことと、会場が白く染まったことの間には因果関係はないですよね。なぜ会場が一色に染まったかと言えば、それは某団体が13000本ほど会場で配ったからなわけですし。』(中略)『そこにあった感動も本物だろうと思います。だけど、それとサイリウム企画の成功には因果関係がなかったってことは意識しておきたい』(中略)『その因果関係が成立していたのはタンポポ畑の時だけだと思う』(中略)『こうした企画が繰り返されることによって、前述のタンポポ畑の意味合いまでが希釈されてしまうような気がして、それに反発していた』(中略)『新しいファンの人にも最初のタンポポ畑の特別な意味だけは覚えていて欲しいな』

……(A)


『担任教師が卒業式の最中に感動したとしたらそれはプログラムをくんだり会場を組織した教頭先生の演出のおかげ。
担任教師が卒業式のあとにクラスの生徒達がカンパして買ってきた花束を渡されて感動したとしたら、それは計画したクラスみんなの演出のおかげ。
どちらの感動の方が『上』なの?計画した人は違うけど先生は同じように感動するんじゃないの?『俺が計画に参加した訳じゃないから、式には出ない』ってどうなの?欲しいのは自分達の側の満足?先生への感謝?大切なのは気持ちじゃないの?それとも自分自身のちっぽけなプライド?
白いサイリウムを絶対化するのも否定するのもじゆうだけど、そんなのどっちでもいいよ。感動的なライブになったんでしょ?安倍さんも娘さんたちも楽しんでたんでしょ?むしろそっちの方が大切だよ』

……(B)

「タンポポ畑」と、「白いサイリウム」はその成立過程が異なる、というのはおそらくAの指摘する通りなのであろう。
そしてAは『タンポポ畑の特別な意味』を聖別し、赤や白のサイリウム企画よりも一段上に置こうとする。
その心情は理解できなくもない。

しかし、Bは、「白いサイリウム」の意味合い、それをどう評価するのかは重要ではない、と言う。『感動的なライブ』を『安倍さんも娘さんたちも楽しんでた』その事実が重要だと指摘する。

本来、それらの出来事を実際に体験したわけでもない私は、何もいうべきではないのかもしれない。だが、Bに深く共感し、Aに対しある種の風通しの悪さを感じるのは事実だ。そこで、自分に対する覚え書きとして、以下を記しておきたい。

……

客観的な「出来事」は一つでも、生きた一個の人間としての「体験」、その出来事に対する「認識」「解釈」は人によって異なる。
そのどれが最終的に正しく、どれが間違っていると断定することは、誰にも出来ない。

神などの超越的存在ではないただの人間である以上、決して本物の「客観」に辿り着くことなど誰にも出来はしない。 誰もが、自分の「主観」という狭い窓から世界を眺めることしかできないのだから。

であるならば、その感動を共有しない人が「白いサイリウム」に心から感動した人に対して、水を差すようなことは口にすべきではないのではないのだろうか。そう、私は考える。
感動した人にとって、その感動は本物であり、大切な記憶となって残るべきもの。それが初心者ゆえの無知に基づくものだと指摘してみたところで、何か積極的で生産的な意味があるだろうか。
「タンポポ畑は特別」と言い募ることで、自己の記憶を神聖化し、他との差別化を図ったところで、自己満足以外の何が残るのだろうか。

確かに、「タンポポ畑」という奇跡をリアルタイムで体験した人、ファンとして自発的に作り上げた人々にとって、それは特別なものであり、「白いサイリウム」と同列に論じられるものではない、というのは心情としては理解できる。
どんな行事やイベントであれ、主体的に作り上げた人と、お客さんとして参加した人とでは受け取る感動の量も質も当然異なる。それは、卒業式であれ、ライブであれ、また、学校祭であれなんであれ同じことだ。
人は自らが払った犠牲、費やした努力、成し遂げた仕事に比例して、それに対する「ご褒美」として感動を受け取ることができる。
しかし、だからといって、「タンポポ畑」のみがリアルな出来事であり、「白いサイリウム」は意図的/作為的に作られた安っぽい虚構に過ぎない、と言ってみても何も始まらない。

そもそも、真にリアルといえるもの、疑いなく「リアルな体験」と呼べるものがこの世にどれほど存在するだろうか。誰もが、多かれ少なかれ、個人的な幻想の中に住まっているのではないのか。
そういう認識論的な反省を忘れてはならないと思う。

特に、人に対して「上から」ものを言おう、「初心者対して教えを垂れよう」というほどの人であれば、そのことによくよく自覚的でなければならないと思う。

それが倫理的な姿勢というものではないだろうか。






('04/2/10初出)

注:
(A)…… TK『モー神通信』1/31「サイリウム」より抜粋
(B)…… yiye『 yiye’s vanity world』2/5「作り上げた感動・作られた感動」より