La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux

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「娘としての娘。」
〜『ふるさと』『パパに似ている彼』『ハッピーサマーウェディング』『女子かしまし物語2』〜

娘としてのアイドル

 女性アイドル歌手の歌う曲は、そのほとんどが恋愛の歌だ。
 「素敵な恋人に出会いたい:夢見る乙女:恋に恋する少女」
 「素敵な恋人に出会って超ハッピー」
 「素敵な恋人にフラれて超ショック」……
 とまあ、そういうテーマの楽曲が目白押しで、これはモーニング娘。といえども例外ではない。
 つまり、女性アイドル歌手が歌う「女の子」は、基本的に「恋愛する主体」なのだ。アイドルという存在が擬似恋愛対象として憧れの対象ともなるものである以上、これは当然のことともいえる。
 しかし、つんくは、「女の子」が恋愛主体である以前に、まず、お父さんとお母さんにとっての娘であることを再確認する。
 両親から生まれてこないことには、恋愛だって出来ないのだ、という単純な事実。
 そして、「娘としての女の子」を歌うことで、つんく♂とモーニング娘。は、アイドル歌謡の詞の世界を拡張して来たのだ。

『ふるさと』における母の導入

 『ふるさと』は、東京に上京して一人暮らしして頑張っている少女が、失恋して、故郷に帰り、母の前で泣く、という歌だ。
 「恋はステキね 寂しくなかった」つまり、恋をしていたからこそ、都会の一人暮らしの孤独を忘れていられた。しかし、「失恋しちゃった」ら、その孤独にはもはや耐えられない。少女は、次の恋を探すのではなく、母にすがる。「泣いてもいいかな 次の休みに少し帰るから」
 少女は恋愛主体であることから一度リタイアし、母のもとで、一人の娘に還る。「涙 止まらないのは 安心したせいだよ My Mother」
 母の前で、思う存分泣いて、慰められて、ようやく少女は、次の恋へと思いを馳せる。「また 恋するけれどいいでしょ Mother」
 (未確認だが、おそらく『ふるさと』によって、はじめてモーニング娘。の楽曲に「母」が導入され、「娘としての娘。」が描かれたのではないだろうか)

『パパに似ている彼』における父の導入

 娘と父の関係は、母との──ほとんど心理的に一体とも言える── 親密さとは違い、ややねじくれた複雑さがあり、そのことが「父と娘の関係」のリアルさを高めている。
 「夜明け前 午前五時 みんな寝てる」ときに、こっそり家を抜け出し、彼とのツーリングデートに出かける、「ちょっと悪い子」。それに協力する妹も、むろん共犯者だ。目に入れても痛くない、でも手に負えない二人の娘。
 娘たちは、年頃になっていて、父親とは距離を置くようになっている。父親の悲哀。
 そんな娘が、「来週の週末は 彼をうちに呼ぶわ」とか言い出すのだ。父は(ま、歌詞には出てこないが)、当然焦る。一体どんな顔をして娘のカレと会えばいいのだ? 不愛想にすれば娘の機嫌を損ねかねないし、かといって下手に出るのも腹立たしい。笑顔で出迎えてなんかやれるもんか……そんな父親の煩悶をよそに、娘は妻に、「お料理を教えてね 味にうるさい人よ」などと殊勝なことを言って、カレを出来もしない手料理で持てなそうとしている!
 この父親の自分でさえ、作ってもらったことなどない手料理でだ!
 そんな父のピリピリした雰囲気を察してか、娘が父に言うセリフは強烈だ。
 「でも彼を気に入るわ だってパパに似てるよ」
 アイドル歌謡であれ、演歌であれ、女性歌手が歌う歌は、巧みに「男の都合のいい願望」を満足させてくれるように作られているものだ。むろん、モーニング娘。の歌も例外ではない。『パパに似ている彼』は娘はファザコンであってほしいという父親の秘めたる願望を形にする。
 「パパに似ている人を好きになりました」
 「わたしの恋人はパパに似ています」
 そう言われてしまったら、グウの音も出ないのが父親というものだ。例えそれが、父の機嫌を伺うための口からでまかせであったとしても……こう言われてしまったら、父親としてはもう、娘が連れてくるどこの馬の骨ともしれない男に対して敵対的に出る気力など消えうせてしまうのだ。
 したたかな娘は、さらに追い打ちをかける。
 「髪の毛は赤いけど 見た目より中身でしょ?」
 ようするに、娘は、ちゃらちゃらした茶パツのイケメンを連れてこようとしている。下手するとバンドかなんかやってて、ピアスぐらいしてるかもしれん。父は、常々、娘に言い聞かせて来たのだ、「男は外見じゃない、中身だ」と。それは、多少外見が悪くても、中身が輝いている男(=自分のような)を選べよ、という父からの、切実な希望であり、願望だったのだ。ところが、生意気な娘は、その言葉を逆手にとって、「外見はちょっとハデだけどさ、人を外見で判断するな、と言ったのはお父さんだよね?」と、あらかじめ父の批判を封じようとするのだ!
 ……父の悲哀、ここに極まれリ。

『女子かしまし物語2』における、さらなる父の悲哀

 『パパに似ている彼』は『女子かしまし物語2』へとまっすぐにつながっている。
 「パパだけ なんにも知らないの
 姉さんの旅行相手
 ほんとに友達となわけ
 ないのにね 母さん」

 このパートを歌うのは、我らが亀井絵里だ。現時点のモーニング娘。で、リアルな「娘」を表現させたら右に出るものはいない存在なのだ、えりりんは。
 それはともかく、パパはすっかり蚊帳の外なのである。パパだけが疎外されているのである。娘二人と母親は結託して、父にだけは長女の旅行相手を偽っているのである。
 学生時代はせいぜい彼氏とツーリングに出かけるぐらいが関の山だった娘も、就職してからというもの、やれ飲み会だなんだと、帰りは遅いし、外泊こそ厳しく禁じてはいるものの、一歩外に出れば、誰と何をしているものやら、知れたものではないのだ。
 父の悲哀、ここに極まれリ。
 そして、この曲で注目するべきなのは、父と母と娘二人、という家族構成は『パパに似ている彼』と同じでありながら、曲の中で一人称を担う存在は姉(長女)から妹(次女)へとシフトしているという点だ。
 この変化は、モーニング娘。がメンバーチェンジを繰り返しながら、永遠の青春を繰り返し生きなおす仕組みと、どこかで通底しているように思えるのだ。

『ハッピーサマーウェディング』娘の結婚

 時代は前後するが、この曲で、娘は結婚し、父のもとを離れることになる。
 「父さん 母さん ありがとう
 改めて言うの 照れちゃうけど」

 娘は、結婚披露宴で、両親にあてた自筆の手紙を読んじゃったりするのである。
 「お父さんお母さん、いままで育ててくれて、本当にありがとう」などと言いながら、涙を流すのである。その涙は、断固として本物の涙であり、それを疑ってはいけないというのが結婚披露宴での鉄の不文律なのだ。
 親に内緒で、彼とツーリングに出かけたり、お泊りデートとかして、さんざん親に嘘をついて(場合によっては本人と母親しか知らない中絶騒動ぐらいあったかも??)カレとの交際を深めて来たくせに、何をツラっとした顔で泣いてるんだ、などとはゆめゆめ思ってはいけないのである。
 「学生の頃 恋した彼には
 父さん 怒鳴ったりしていた
 (なんだ君は…)」

 この歌詞は、『パパに似ている彼』から、見事に連続しているといえるだろう。
 やっぱりパパは、茶パツの彼には、怒鳴っちゃってたのだ。
 しかし、それも遠い昔の話だ…なにせ、今娘の隣に立っているのは、証券会社に勤める立派な社会人なのだ。
 そして、娘が泣きながら手紙を読むのを聞いて、父親も泣くのである。
 ようやく無事に片づいてくれたか、と思って安堵のあまり泣くのではないのである。
 逆に、最愛の娘を、ヨソの男に奪われる悔しさで泣くのでもないのである。
 あくまで、娘との別離が寂しくて、感極まって泣くのである。男泣きに泣くのである。
 ……なんの話をしているのか、分からなくなって来た。

 それはともかく、この曲のキモは、言わずと知れた、中澤裕子のセリフ、娘が父親に彼氏をはじめて紹介するシーンなのである。
 そのセリフをつんく♂が、レコーディングブースで、中澤裕子に一言づつ口伝する際、彼は中澤裕子にこう状況を説明している。
 「父さんが2メートルくらい向こうで、ちょっと背中を向けているような感じ」
 わかるだろうか。父は、娘が彼を連れて来たのに、背中を向けているのである。決して、ウェルカム! ようきてくれはりましたなあ、という和気あいあいムードではないのである。
 今まで見て来たのと同様、この曲においても、娘と父の間には、彼を巡って緊張が走っているのである。
 娘は緊張した面持ちで、改まって、父に彼を紹介するのだ。
 なんとか、彼を気に入ってもらって、結婚を快諾してほしいという一心で。
 その娘が用意して来た奥の手のセリフが、これである。
 「お父さんと一緒で釣りが趣味なの
 だってお父さんが
 釣り好きの人に悪い人はいないって言ってたし
 ね お父さん」

 へー、証券会社に勤める杉本さんも、釣りがご趣味ですか、それはまた奇遇ですなあ……などと、この父が易々と騙されるとでも思ったか、我が娘よ!
 騙されるな! これは罠だ! 作戦なのだ!
 どうせ娘はあらかじめ杉本とやらと打ち合わせしてあるのだ。
 娘「なあ杉やん、今度、お父さんに会うてもらうから」
 杉本「しんどいなあ」
 娘「プロポーズの時ぐらい、しゃんとしてや!」
 杉本「わかったよ、うるせーな」
 娘「それから、趣味はバクチと夜遊びとかホンマのこと言うたらあかんよ」
 杉本「なんでやねん。かっこつけたかて、すぐ化けの皮はがれるて」
 娘「あほかいな。結婚式終わるまで剥がれんかったらええねん」
 杉本「あ、それもそやな。結婚してもうたら、こっちのモンやな」
 娘「そやからな、趣味は釣りです、ってことにしとき!」
 杉本「……俺、釣りなんてようせんわ。まるっきり知らんで」
 娘「今から勉強しといてや」
 杉本「なんで俺がそこまでせんならんねん?」
 娘「ええから!」
 杉本「難儀な話やなあ」
 娘「お父さん、いっつも釣り好きには悪い人いない、て言うてはるから」
 杉本「へえ」
 娘「お父さんと趣味が一緒やったら、話のきっかけにもなるやんか」
 杉本「まあ、そらぁそやなあ」
 娘「そやから、そういう設定でいくから。わかった?」
 杉本「しゃあないなぁ」
 娘「頼むで、ほんま」
 ……というような計略があったに違いないのである。
 その策略がまんまと功を奏して、娘は、無事結婚にこぎつけるのである。
 …だが、我が娘よ。そんな策略を巡らせなくても、お父さんは、お前の選んだ相手を、黙って受け入れようと思ってたんだぞ…

「娘としての娘。」その絶大な魅力

 つんく♂が創作し、モーニング娘。が歌う「父と娘」の世界は、かくもリアルである。
 決して理想論ではない、身につまされるような、現実的な関係性。
 つんく♂は、常に、アイドルソングのなかに庶民的なリアリティを大胆に描き込む。それは「父と娘」の関係性にも典型的に現れている。
 そのことで、モーニング娘。との擬似恋愛的幻想を育む若い世代のファンだけでなく、モーニング娘。のような年頃の娘を持つお父さんたちをも虜にしてきたモーニング娘。なのだ。
 ま、お父さん世代のファンであっても、モーニング娘。を「娘」としてではなく「擬似恋愛対象」として愛するファンがいても、それはそれで、素晴らしいことだ。
 それは断固として素晴らしいことなのだ。
 間違っても、キショイとかキモイとか言ってはいけないのだ。
 そんなことを言ったら、わたしの立場はどうなるのだ?
 こんこんより19も、えりりんより20も年上なんだぞ!
 彼女らの父親のほうが、ずっと歳が近いんだぞ!

ノノ*^ー^)<最後のほう、楽曲論でもなんでもないですよ?

追記: つんく♂さんの姿勢から

 つんく♂さんが、博多華丸大吉さんの紹介でお見合い結婚したあとで、ラジオに出演したときのこと。
 FUJIWARAから「なぜ、ハロプロの可愛い子よりどりみどりなのに、わざわざお見合い結婚なんだ?」と訊かれて、つんく♂さんは、こう真顔で答えました。
 親御さんから預かった時点で全員娘だと。
 さすがですね。
 漢の中の漢ですね。
 「おニャンこ」と結婚した秋元某や、自分がプロデュースした女性歌手と次々と浮き名を流したコムロ某とは、人間としての格が違います。

 そして、プロデューサーがメンバーの事を「自分の娘」だと思って、実の父のように愛情を注ぎながら、彼女たちの歌を作っていく、ということによっても、モーニング娘。の娘的特性、「娘としての娘。」という性格が、いよいよ強まるのだ、と言えるでしょう。

(2007.03.12初出)
(2007.03.28追記)