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モーヲタ的大衆文化批判?
痛井ッ亭。 itaittei.

2007.11.27 『希空』
2008.01.08 紅白歌合戦──大衆消費文化の象徴としての
2008.07.15 モーヲタと「不惑」 〜40歳がどないやねーん!!〜
2008.07.18 「エアあやや」という語など

2007.11.27(火)
『希空』

 ののたんの第一子誕生に、つんく♂さんからも、心のこもったお祝いのメッセージ。

無事出産おめでとぉ〜!

辻希美から、無事出産したという報告がありましたよ!

わぁ〜、なんだか、自分のことのようにうれしいです。

なんでかな、やっぱ、孫感覚なんでしょうか?

ちょっと違うかも知れませんが、
あの小さかった辻がお母さんになっちゃうんだから、
すごくうれしいよ。

生まれたのは女の子だし、
やっぱ、モーニング娘。候補生だよな〜
なんて勝手に思ってます。

しかし、これからが母親本番、
しっかりばっちりかっちょいい&かわいいお母さんになってくださいね!

辻がプロデューサーやね。

早く、赤ちゃんに会わせてや〜、
そして抱っこもさせてや〜!

楽しみです!

応援してるでぇ〜!

つんく♂オフィシャルブログ 「つんブロ♂芸能コース」2007年11月26日(月)「無事」より

 そして、ニュース記事から。

 元モーニング娘。の辻希美(20)が26日、夫の俳優、杉浦太陽(26)との第一子を出産したことがわかった。
 所属事務所が杉浦・辻連名のコメントとともにマスコミ各社にファクスで報告。所属事務所によると、辻は26日の午前0時45分に女の子を出産、母子ともに健康で産後の経過も良好という。
 また、杉浦は女児の名前を「希空(のあ)」と命名したことも明らかにした。

辻ちゃん第一子生まれる!女の子「希空(のあ)」11月26日18時49分配信 産経新聞より

 何はともあれ、無事出産です。
 本当におめでとうございます。
 元気に明るくのびのびと辻ちゃんらしく子育てを頑張ってね!

 ……で、ここからが本論ですよ。

 『萌野』という二つの漢字のつらなりが想起させるイメージは、まことに美しい。だがそれを何と読めばいいのか。モヤと読むのだという。だが、日本語の慣習は、「萌野」をモヤと読むことを許さない。「野」をヤと発音することには何ら抵抗はあるまいが、「もえる」意の「萌」をモと発音させることは不可能である。だから、萌えるような野というイメージの美しさにもかかわらず、「萌野」という文字をモヤと読めというのは、例の日本語の乱れいがいの何ものでもない。(中略)大岡氏の長男夫妻が、新たに誕生しようとする二人の子供のために、名前として「萌野」を用意し、しかもそれをモヤと読ませるのだと知ったとき、(中略)「しかし『萌野』を『もや』とは『湯桶』読みとしても無理である」と断言する。そして、こう続けているのだ。

 戦後の言語改革の結果、漢字を国語一音の表示と見なす傾向が生まれているのを私は知っている。「萌」を「もえる」「もえ出る」の「も」と考える世代に息子夫婦はいるのである。「有見」と書いて「ゆみ」と読ませた例を知っている。しかし親父は古風な改革反対論者なのである。

 (中略)「現代の漢字の読み方の痴呆的変化」の一典型が、初孫の名前として用意されている事実をどうしてもうけいれがたく、酒のいきおいもあって、「萌野なんて低能な名前のついた子は、おれの孫じゃあない」とまで言ってのけた「私」である大岡氏自身が、紀行文の形式を借りたこの小説の題に、その「萌野」の二語を選んで「もや」とルビまでふっている事実の感動的なさまは、改めて強調しておきたい。
蓮實重彦『反=日本語論』(ちくま文庫1986)所収「萌野と空蝉」より

 この文章を書いた蓮實重彦は、大岡昇平の「古風な改革反対論者」としての感慨を共有しているわけではなく、むしろ「生きて」「動いている」日本語を擁護しさえするのだが、それはともかく、この文章が書かれてからでも20年以上を経過した現代に生きる我々もまた、もちろん、この程度では驚いたりはしないのである。なにしろ、「宇宙」と書いてコスモス君、「三音」と書いてドレミちゃん、という日本人がぞくぞくと登場するような時代に我々は生きているのだ。なぜ、ドレミちゃんであって、ドミソちゃんでもシレファちゃんでもイロハちゃんでもないのか、まったく理由が分からないのだが、ともあれこれが、人名漢字はどう読んでもよい、というルールを定めた、優秀な官僚どもが作り上げてきた戦後の国語政策の見事な結実であることは間違いない。
 大岡昇平は「萌」は「モ」とは読まないのだ、と言った。それは、政策的規定云々という愚かな議論とは無関係に、日本語の問題として、今でもまったく正しい。「希美」という名前は、「のぞむ」という動詞の連用形(あるいは名詞形)「のぞみ」に「美=み」を重ねたものとして一応受け入れることの出来る名前である。が、「希」はキとは読めても「ノ」とは読めないし、同じことだが、「空」をアと読ませるというのは、「あく」の「あ」だということだが、そりゃあ、あんまりにもあんまりだ。かといって、「希望の空」という漢字の持つ美しいイメージが、「ノアの方舟」のノアと関連がある訳でもない。それとも、なにか、他の参照元があるのだろうか。もちろん、既に、これを読むであろう人のかなりの割合が、おそらくは、自分の名前を書いても、初見で他人に正しく発音してもらえないであろうような国語的現実のなかで、いつまでもこんなことをボヤき続けても、まったく不毛としか思えない訳だが。

 歴代25人のモーニング娘。の中で唯一、名前に「子」が付く、古きよき時代(?)を想起させる名を持つ裕子を筆頭に、彩、圭、圭織、なつみ、真里(湯桶読み)、紗耶香、明日香、梨華、美貴、ひとみ、真希、愛、あさ美(平仮名+漢字、「朝美」か「あさみ」にしとけよ紺パパ!と思うが、それは趣味の問題)、希美、麻琴(重箱読み)、亜依、純、里沙、絵里(湯桶読み)、さゆみ、れいな(麗奈)、琳、小春(古風だが美しい名前)、愛佳と(以上、生年月日順)、モーニング娘。は「読める名前」に恵まれてきた。これは、偶然なのだろうか。73年生まれの裕ちゃんはさておき、それ以後の世代なら、「これどう読むんだよ?」と頭をかきむしりたくなるような名前がいくつか混じっていても不思議ではないような気がするのだが。

 筆者と同じ68年生まれのつんく♂さん。同級生の名前は、一江だったり、陽子だったり、由美だったり、文枝だったりしたし、佳香や美貴なんて程度でも、どことなく、気取っているか、スカしてるか、蓮っ葉な雰囲気が漂った時代に生まれ育ったつんく♂さんは、『希空』という名前に何を感じただろうか。大岡氏の思いを共有しただろうか。

 ノノ*^ー^)<キソラちゃん? でしたっけ? オメデトー、ワー、パチパチー!
 ( ´D`)<ノアだよ!
 从*・ 。.・)<「空」を「ア」とは、さすが馬鹿女(バカジョ)ですよね!
 ( ´D`)<いいんだよ! ほっとけよ!
 川VvV)<読めねーよ。
 ( ´D`)<読めなくても読ませるんだよ!
 ノノ*^ー^)<ってゆうか、おめでたい出来事のときに書くネタですかね、これは?
 从*・ 。.・)<さすがのKYぶりですよね。

2008.01.08(火)
■紅白歌合戦──大衆消費文化の象徴としての

 2007年12月31日、第58回NHK紅白歌合戦、われらがモーニング娘。が歌うことを許されたのは、結局『LOVEマシーン』だった。リーダー高橋愛は「出来れば『みかん』を歌いたいんですけどね」と、ラジオで語っていたのだったが。
 結局のところ、大衆消費文化において、モーニング娘。とは、『LOVEマシーン』に尽きる存在(そして遅くとも『ザ☆ピ〜ス』で終わった存在)であり、その代表曲の代名詞に過ぎないのだ。『LOVEマシーン』でおなじみの「モーニング娘。」。決して現モーニング娘。を否定するために言うのではない。それが大衆消費文化の残酷な現実だということにすぎない。そして、NHKがマス(大衆)メディアの支配者、管理者を自負する存在であり、紅白歌合戦が大衆消費文化の象徴である以上、モーニング娘。が、新曲『みかん』を歌えないという悲しい現実もまた、当然すぎるほど当然のことだ。
 モーニング娘。ばかりではない。美川憲一と言えば「さそり座の女」であり、平原綾香は「Jupiter」一曲で終わった存在であり、あみんとは「待つわ」と同義であり、寺尾聰は「ルビーの指環」であり、鳥羽一郎は「兄弟船」、布施明と言えば「君は薔薇より美しい」、前川清は「そして、神戸」、石川さゆりは「津軽海峡・冬景色」、御大和田アキ子でさえ「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌うのであり、秋川雅史に至っては「千の風になって」以外の曲を歌うことを許される可能性など万に一つもない。一般に、新曲が披露できる可能性は低く、それも2007年中に、よほど世間の話題をさらったのでもない限り、あのセットリストの中の一曲として認められることは難しいであろう。そして、代表曲の奴隷とされる歌手ばかりではなく、歌自体もまた、歌番組の都合に従属するものとして手荒に扱われる。歌の最中に、歌の内容とは無関係な2007年を騒がせた社会問題の映像が流れ、テロップが入り、歌は単なるBGMに格下げされる。また、売れない歌手の後ろでは、バックダンサー達が無関係なパフォーマンスを繰り広げ、こんな歌だけでは視聴率が取れないと言わんばかりに、視聴者の関心を歌から奪い去る。小林幸子は例によって衣装=大道具のうえに磔にされて身動きすらままならず、その歌もろとも舞台装置の下に踏みつけにされる。それに比べれば、いかにも大御所然として、大勢を従えて歌う北島三郎和田アキ子両御大は、その地位に相応しい「マシな」扱いを受けているとも言えるが、しかし、その演出の結果表現されるものは、歌の持つ力や美しさというよりも、大御所らしさ、権威、地位、貫禄などといった歌の内容とは無縁のものになっており、歌そのものは、やはり売れない歌手のそれ同様、傷つけられ、虐げられている。それが大衆消費文化としての歌謡曲、J-POPSの偽らざる現実である。仮に宇多田ヒカルがこの番組に出演するとすれば、おそらく「Automatic」を歌うことを求められるのは間違いない。なぜなら、彼女ですら、大衆消費文化の次元では、あの一曲で終わった存在であり、その後作られた素晴らしい楽曲の数々がいくらミリオンセラーになろうとも、それは「ポピュラー音楽の世界」の内部事情に過ぎず、世間にとってさほど重要な問題ではないからだ。紅白歌合戦という大衆消費文化的秩序を象徴する場においては、どのような素晴らしいアーティストであっても、ひとつの大衆文化的消費財として扱われる他ないという、悲惨な現実。その現実に抵抗するために、多くのミュージシャンたちが、過去、そして今も、紅白歌合戦への出演を固辞しているのではないだろうか。

 大衆消費文化の消費過程においては、いわゆる「アーティスト」は、大衆的に認知された曲=ヒット曲=優良商品の奴隷に過ぎない。そのことの残酷さを、今回もっとも顕わに体現していたのは、おそらく、「ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図〜紅白ヴァージョン」を歌った DREAMS COME TRUE の吉田美和であろう。吉田美和(42歳)の事実婚の夫君が、一種の癌により33歳という若さで世を去ったのは、9月末、わずか3ヶ月前である。噂では、彼女は夫の死以来、毎日泣き暮らしており情緒も安定を欠いていたというが、それもあまりに当然の話だろう。披露された、「ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図」は、10月3日に発売されたばかりの新曲であり、夫の死の直前まで続いたツアーの中でも歌い続けられていたのだったが、吉田は、おそらくは、この楽曲を、病床の夫を思いながら、彼の回復と、2人の明るい未来を願って作ったのだろう。夫の死を覚悟したうえで書いた曲とは思えない。その楽曲を夫の死後に歌うことの辛さを思う。たしかに、紅白のリハーサルの後、大先輩の和田アキ子は彼女を抱きしめ励ましてくれたかもしれない。しかし、ゲイや性同一性障害などの性的多様性には一定の理解を示すことのできるNHKも、事実婚、内縁の夫という、法律婚制度への挑戦とも言える存在、旧弊な世間の秩序や良俗に反する者を、番組内で正面から認め、その死を公式に悼むことなど、現状では望み得ないことである。だから、スポーツ新聞などが「辛い夫の死を乗り越えて」という文脈で悲劇を物語化しようとしても、紅白という場では、夫の死自体がないものとされてしまう。そのうえで、彼女は辛い歌を懸命に歌うのだ、痛々しい歌詞の数々を。ア・イ・シ・テ・ルって 伝えられてるかな?/ふたりの"今"が"昨日"に変わる前に、ふたりの時は既に過去にしか存在しないというのに。ねぇ わたしたちの未来予想図は まだどこかへたどりつく途中、もう共に思い描く未来などないというのに。新しいサインが 増える時にも、それはもはや増えることは決してないというのに(以上、歌詞は全て、「ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図〜」(作詞:吉田美和)からの引用)。悲しみにくれる、普通の神経の持ち主に、この時期、この曲が、どうして歌えるだろうか。これを歌うことは、いったいどうして決まったのか。昔よく聴いた吉田美和の歌は、CDで聴くと意外と教科書的な律儀さがあってつまらないことが多かったのだが、殊、生で歌う場合には、TVであれ、ライブであれ、その明るく伸びやかな歌声と、圧倒的な歌い手としての技量に裏付けられた、生命力を感じさせる活き活きとした歌は、音楽することの喜びに満ち溢れた比類のないものであった。だが、今回の紅白での歌唱には、その片鱗すらなかったと言ってよい。もちろん彼女ほどの技量と経験の持ち主であれば、心が遠くにあっても、外形上は見事な歌唱を作り上げてみせることができるし、事実その歌は、高いレベルを維持していたと言ってもよい。だが、それは、彼女自身のベストパフォーマンスの、出来上がった枠をなぞる上手なぬり絵でしかなかった。それは、あまりにも生彩を欠く、ほとんど惨たらしいとさえ言える音楽的廃墟であった。嘘で塗り固めた偽りの喜びの表情が義務的に連なる無残なパフォーマンス。やけっぱちとも思える観衆への、表面的な、形だけの煽り。しかし、それ以外に、彼女に何が出来たであろう。そうしてまで、あそこで歌わなければならないということ、その哀れな姿を電波に乗せなければならないという事実、それが、大衆消費文化の消費財であることの悲惨さであり、大衆消費文化というもの自体の虚偽性、欺瞞性、残酷さの本質的な表れである。

 そのような大衆消費文化の過酷さの渦中で、われらがハロプロは、なかなか善戦したと言えるのではないか。過去の栄光である錚々たるOGメンバーを駆り出す回顧調の姿勢ではなく、Berryz工房、℃-ute、という二組の初出場を実現し、現モーニング娘。と、キッズのメンバーを加えた「ハロー!プロジェクト10周年記念紅白スペシャル隊」で勝負する様は、まちがいなく未来を志向していた。また、メドレーを歌うという方法が──マッシュアップ的手法を取り入れて「恋レボ」や「ピース」と言った黄金期楽曲の断片を紛れ込ませつつ──、真新しい新曲、紅白というハレの場が初披露である楽曲『LALALA 幸せの歌』で、ちゃっかりステージを締めくくることをも可能にしていた。そのことの持つ、大衆消費文化に対するロック的抵抗の意義は、決して小さなものではないと思う。それは、「ラブマ」だけの私たちじゃない、今も、日々新しい歌を歌い続けているんだ、という意思の表明、大衆文化的残酷さへの異義申し立てだった。もっとも、それが可能なのも、「ラブマ」をはじめとする大衆文化的共有財が、今なお現役で流通しうる価値を認められているからに過ぎないということも、併せて注記しなければ公平とは言えないのかもしれないが。
 だが、ハロプロのメンバーたちは、紅白用にわざわざ新しく構成されたメドレーのために、新しい振り付け(コレオグラフ)を覚え、練習を重ね、披露したのだ。すでに落目ともいえる紅白歌合戦のために、ここまで準備に手間と時間を掛け懸命に働いたスタッフチーム、やる気のあるグループが他にあっただろうか。
 紅白歌合戦の直前、スポーツ新聞には「アイドルの保守本道の王座を争う」という物語化を通じて、ハロプロとAKB48との対決の構図を煽る記事が出ていた。リーダー高橋愛は「負けたくないですね」と語り、表面的には、勝負を受けて立つ、という姿勢を見せながら、相手を対等と認めてみせることでAKB48にエールを送っていたと言ってよい。しかし、CDや関連商品の売り上げなどといった商業主義的で皮相な次元での闘争はさておき、その活動の精神的意義における闘争、想像的次元での闘争においては、AKB48は「対決」するに値する相手だったのだろうか。AKB48についてはほとんど何も知らないので、その点については何も語ることはない。しかし、あの番組を見た印象としては、AKB48はその名の通り「アキバ系」という2007年の流行現象の象徴として、リア・ディゾンというアメリカからの出稼ぎグラビアアイドル、そしてヲタク系アイドルブロガー、ショコタンこと中川翔子と併せて、一括りの枠で紅白歌合戦に出場していたと言えるように思われる。その中では、中川翔子の歌が意外と力強く、ヲタクの知性と底力、長い下積みで培った根性を見せていたように思えるが、それはさておき、この3組は合同で秋元康の「なんてったってアイドル」を歌ったのだった。本来、この歌はアイドル自身が「アイドル」の虚構性を暴き、皮肉ってみせるという批評性をも有している曲だが、今回歌われた短い一節では、その批評性は表現されず、結局は「アイドルはやめられない」「アイドル最高」という単純なアイドル賛美へと貶められていたように思われる。そのパフォーマンスは、確かに「アイドルの保守本道」を志向していたとも言い得るだろう。しかしモーニング娘。たちは違う。彼女達のパフォーマンスとは、彼女達を典型的なアイドルの枠に押し込めようとする事務所側の意図と、その支配の下にありながらも、作品やパフォーマンスを通じてそれに抵抗しようとするプロデューサーつんく♂とメンバーたちによるアイドル批判の実践、その両者間の弁証法的闘争過程そのものである。そのパフォーマンスは、モーニング娘。が本来「アイドルの保守本流」などではいささかもなく、まさに革新勢力であったこと、アイドルによる「アイドル」概念批判であったことを、常に再認識させるものでもある。従って「アイドルの保守本流の王座」を巡る争いなど、最初から、そこに成立することはないのだ。
 ロボット風のぎこちなくメカニカルな動きから始まる彼女らの紅白でのパフォーマンスについて、詳しく検討する余力はないが、2、3、気になった点をメモしておきたい。ガキさんによる「ディアー!」の見る者を惹きつける表情、その迫力。それはオリジナルである飯田圭織の天然とも、吉澤ひとみの開き直ったそれとも違い、「モーニング娘。とは何者なのか」ということを自覚的に表現する。新垣里沙は、その表情だけで、『LOVEマシーン』と言う楽曲が本来持っていた革命性、しかし使い古されるなかですり切れて色あせてしまった革命性を、今の時代に見事に蘇生させる。われわれは、この「ディアー!」が、それを吉澤ひとみから直接受け継いだ──はずだった──あの娘による「ディアー!」であれば、どんなに嬉しいだろうか、照れくさそうにしかし頑張ってそれをやり切り、そして、気恥ずかしそうに顔をくしゃくしゃにするあの娘の笑顔が見られなかったことを、寂しく思わずにはいられないのだが、その欠落感をも忘れさせるほどの鬼気迫る表情を新垣里沙は見せていたように思う。そして、その直後に続く、道重さゆみの「Disco!」という掛け声。ふだんであれば、アイドル的な「可愛らしさの記号」をあえて「ぶりっ子」的に過剰に表現することで、そこに黒々とした批評性を産み出す道重さゆみだが、その彼女の声は、ボコーダーを介することで、異形の声に変調させられていたのだった。そのことの意義は、明確に言い表すことが難しいが、だからといって看過されていいものではなく、何らかの意図があるように思われた。しかし、あれは、本当に道重さゆみの声だったのだろうか? それはもしかすると「つんく声」だったのではないだろうか(脳内妄想)。そして、小春の堂々たる主役ぶりと、ジュンジュン、リンリンの誇らしさと自信と新鮮さに溢れた躍動感ある動きもさることながら、かめヲタの筆者は、当然ながら、かめちゃんの楽しそうな笑顔と元気いっぱいのえりもも、これさえあればなんとか来年も生きていける、2008年も亀井絵里を心の支えにして、亀井絵里と共に生き抜いていこう、と思い、またしても20歳も年下の小娘にすっかり励まされてしまった自分に、「コイツめー」と軽くツッコミを入れ、額をコツンと叩くのだった。

2008.07.15(火)
モーヲタと「不惑」 〜40歳がどないやねーん!!〜

 不惑。四十にして惑わず。儒教については疎いが、孔子とかいう中国の昔の「えらい人」が『論語』という本で書いた言葉だということは知っている。そしてこの言葉が、愚かしい言葉だというも。
 この言葉は、人は四十になったら思い悩むな、戸惑うな、自己を確立せよ、と命じる。孔子は、あらゆる難問題を鮮やかに解決できる唯一絶対の原理が確立できると妄信し、それを「不惑」という人生訓として提示する。「不惑」とは何か。それは、新たな経験から学ぶことをやめること、過去に貯金した知識や見識や判断力などを元手にした利子生活者となること、一言で言えば、生きながらにして精神的死者となり、知的棺桶の中で余生を送ることである。現役からリタイアせよ、細かいことに思い悩むな、世の中を覆いつくす矛盾や悲惨には目を瞑れ、三十代のうちに、世間で一目置かれるような立派な地位を得るなり、権力に取り入るなりしておいて、あとは悠々自適、小市民的な幸福を享受して安穏と生きよう、と孔子は呼びかける。実にご立派な処世訓である。この言葉に孔子がもう少し高尚な意味を与えようとした可能性も皆無ではないが、現代日本の大衆文化においては、「不惑」は上記のようなご教訓として受けとられ、ありがたい御言葉、文化的通貨として流通しているのである。精神的な利子生活者は、元本さえ後生大事に銀行に預けてあれば安心だと考える。しかしその虎の子は精神的な物価の急騰で、知らず知らず目減りしており、いつなんどきハイパーインフレで紙屑同然になるかもしれない。知的利子生活者、精神的ブルジョワ風の生き方に背を向け、生涯一労働者の覚悟を持ち、現実の課題の一つ一つについて批判すべき問題を見出し続けること。現実の矛盾から目をそむけることを拒絶するなら、そこに「不惑」という状態が到来することはありえず、また、あってはならない。この世とは、解決が希求されながらその糸口さえ見えないような矛盾によって織り上げられた、血塗られた毛織物なのだ。

 わたしの座右の銘は、「学びて已まず、棺の蓋を覆いてすなわち已む」という中国の古い言葉だ。学ぶこと、精神的に成長すること、それは、棺桶に入って、蓋に釘を打たれるその瞬間まで終わらないのだ、という決意。学ぶとは、惑うことである。日々、新たな問題に直面し、新たな自分を発見し、新たに視界に広がるこの世界の相貌に、心の底から狼狽えることである。そして、惑うことこそが、生きるということである。
 少々口汚くなるが、「私は自己を確立した」「達観した」「悟りを開いた」と真顔で語る人間を見たら、そいつは大馬鹿者だと考えて間違いない。いま「文章の品格」が急上昇した。そして大馬鹿者の客観的指標と見なされる表現の総元締こそ、ほかならぬ「不惑」である。この「不惑」という、愚かであるにも関わらず、強い影響力を持つ表現へのアンチテーゼとして、中澤裕子が著書のタイトルに掲げた言葉を敬意を込めて借用したい。『30歳がどないやねーん!!』30年生きようと、40年生きようと、その数字そのものに大した意味などない。単なる時間の経過そのものがなんらかの価値を担保するなどというテーゼは、甘えでなければ、年功序列というイデオロギーにしがみつかなければ安心できない弱さの証か、若い世代の台頭に怯える不安の表れでしかない。「いくつになっても、まだまだ若い子たちには負けへんでぇ!」という中澤裕子の姿勢を共有することこそが、年齢を重ねた者の取るべき真に倫理的な姿勢であろう。

 かつて詩人の吉原幸子は『パンの話』(1963-4)という詩の中でこう歌った。「飢ゑる日は/パンを食べる/飢ゑる前の日は/バラを食べる/だれよりもおそく パンをたべてみせる」 そして詩人で小説家の金井美恵子は、その初のエッセイ集のタイトルを『夜になっても遊びつづけろ』(1974)とした。パンに対するバラ、仕事に対する遊び、これらの対比は、「現実」よりも「夢/理想」を選び取れ、という宣言を意味しよう。合理主義的、合目的的近代社会における非合理的なもの、無駄なもの象徴としての、バラであり、遊び。二人の詩人の態度は、現実に背を向けて夢の世界に没頭するオタクの精神を、はるか以前から用意していたと言えるかもしれない。そしてモーニング娘。もまた──あらゆる遊びと芸術とともに──、このような非合理性、無駄なものの代表格であるだろう。モーニング娘。がなくても人は生きられる。世間一般の合理的価値観は、モーニング娘。に金や時間をつぎ込むことを無駄だと見なすであろう。しかし、無駄なもの、なくてもかまわないものの魅力に惹きつけられ、それを愛することができるということ、そこにこそ生の豊かさ、人間らしさそのものが賭かっている。無駄なもののもつ圧倒的な魅力のためにこの人生を消尽することを措いて、生きるに値する何ものも存在しない。合目的性、必要性に拘束された生は、貧しい動物の生にすぎない。無駄にこそ生きる価値を見出すオタクは、精神的な貴族なのだ、たとえ物質的にはどれほど貧困であろうとも。

 モーニング娘。は歌った。「何度も夢を見てきた/あきらめたりは出来ない」(モーニング娘。『みかん』2007)夢をあきらめないということは、批判とその対象たる現実との弁証法的闘争過程において、ユートピア的契機を決して手放さないということである。しかし悲しいことに現代日本においては、「いい大人がいつまでも学生気分で青臭いことを言うな」といった言葉のほうが圧倒的に優勢であり「現実的」であると見なされている。つまり「大人になる」ことと「諦める」こととは同義なのである。そのような社会にあっては真理・理想・正義・正論という言葉そのものにさえ幼稚というニュアンスが纏いつく。「夢」では「メシは喰えない」のだ。喰えない「夢」より、喰える「現実」。しかし、そうであるならば、決然として子供でいること、幼稚でありつづけることを、わたしは選び取りたい。喰える「現実」よりも、喰えない「夢」を。「大の大人でも 初心者だって/おんなじ ことじゃん」(『みかん』)という、つんく♂の言葉に同意することは、決してヲタのゴッコ遊びではなく、真剣極まる倫理的決断なのである。たとえ大の大人と呼ばれる歳になろうと、「生きる為に泣いている/赤子のように」(『みかん』)、人間らしい生の実現を妨げる障害に対してあくまでも抵抗しつづけたい。人生に完成はない、ということが、『みかん』(=未完)という曲名に込めたつんく♂のメッセージだった。人生の完成という観念は、その御立派な響きとは裏腹に、実際には、残りの人生が持ちうる未知なる可能性に門前払いを食らわせる自分の未来への死刑宣告に他ならない。未だ実現しない夢をあきらめない者は、「不惑」などという言葉に惑わされてはいけないのだ。

 モーニング娘。には完成形は存在しない。彼女らが示す姿は常に進化の過程、現在進行形の運動の一断面であり、それは、人間の人生に完成がないことのアナロジーである。人は必ず死ぬ。しかし、死は完成ではない。それは《未完》の人生が未完に終わったことを確定する出来事であり、未来の可能性を強奪し、生を突如切断する。また、死はそのようなものであるべきだと思われる。予期された死の時点めがけて綺麗な放物線を描き、人生の稔りを全て収穫し終えてから大往生を遂げようという考え方は、端的に言って、貧しく、さもしいのだ。円熟や、完成、悟り、不惑、それらを退けること。そして、まだ読んでいない書物、まだ聴いていない音楽、新たな挑戦や冒険に取り囲まれ、明日の予定、一年後の予定、予定帳に書ききれない無数の夢を脇に抱えて歩き続け、歩きながら前のめりにつんのめるように死ぬ。それが私の望む死に方だ。
 40歳になったからといって、何かを諦めたり、「大人」になったり、「達観」したり、ということとは無縁に生きて行きたい。そして、人間らしい生の実現へ向けて、考え続けたい。そのことは、わたしにとって、モーニング娘。がモーニング娘。らしくあり続けられる条件、亀井絵里が亀井絵里らしく生き続けられる条件を考えることと不可分である。その課題を手放さないことこそが、わたしがわたしらしく生きるための必要条件なのだ。モーニング娘。を愛すること、モーニング娘。について考え続けることは、生きることそのものである。某「親方」の2日後、某「ミラクルエース」とまさに同じ日──ヲタにしかわからないように敢えて回りくどい表現で──というモーヲタ冥利に尽きる日付に、40の大台に乗る某「痛い人」は、いま、決意を新たにする。いくつになってもモーヲタでありつづける、と。しかし、この決意もまた無駄な決意であり、無償の饒舌である。なぜなら、そんな決意などするまでもなく、そもそも、どうしたらモーヲタをやめられるのか、あんなにも魅力的なモーニング娘。たちを愛することを止められるのか、皆目見当もつかないからだ。

2008.07.18(金)
「エアあやや」という語など

 最近「エアあやや」という言葉がメディアに踊っている。はるな愛さんの、あややのモノマネ芸を指す言葉。この語の元になったのは「エアギター」だろう。何も持たないでギターを持ったポーズだけしてギターの弾きマネをするという芸、というか趣味。
 「エアギター」という言葉は理解できる。掃除の時間にホウキを持ってやれば、「ホウキギター」、何も持たない=空気をギターに見立てるから「エアギター」。論理的。しかし、「エアあやや」はどうなの? はるな愛さんの──おそらくは豊胸手術やホルモン剤投与なんかもして金をつぎ込んで作り上げた美しい──肉体は、どうみても空気ではない。じゃあ「エアあやや」じゃなくて「はるなあやや」じゃん! という疑問が湧くのである。
 ここでは、「エア」という接頭辞は、空気という元々の意味から解放され、単に「モノマネ」という意味になっている。実にアホっぽい新語形成。アホっぽい言葉であっても、罪のない流行語として、アホっぽさ込みで使用するのは大いに結構だと思う。しかし、私は断言するが、若者世代においては「エアとはモノマネのこと」という了解が成立してしまい、常識として流通してしまうだろう。英語の授業で「air」の意味を訊かれて真顔で「モノマネ」と答え、辞書を引いて「モノマネ」という語義がないことに驚き、辞書が間違っている! と怒る人達が誕生する。だってエアってモノマネのことだもん!
 これは極論ではない。こういう事例は多々ある。たとえば、モーヲタ界隈でも広く流通している「アウトロ」という造語。前奏=イントロという言葉からの類推で、「じゃあ後奏はアウトロだろう。インがあるならアウトもあるやろ」ということで成立したであろうこの造語は、本来存在しない語である。 introduction に対応する英単語 outroduction は存在しない。後奏は正しくは Ending である。しかし、「アウトロ」は、日本のポップス界ではかなり幅広く(ほぼ常識として?)流通してしまっている。
 正しい日本語を使いこなせたうえで、洒落としてアホっぽい新語を使うのはチャーミングで、いいことだと思う。しかし、現状では、正しい日本語って何? というレベルの日本語能力のうえに、アホっぽい新語がアホっぽさを忘却された状態で山のように積み重なり、そのアホな造語が若い世代の日本語の水準を形成してしまう。これは、既に、今さら嘆いても始まらないことなのかもしれない。こんなことを嘆いている自分のほうが古臭いオッサンに思えてくるのである。
 ……と、「エアあやや」という語のアホっぽさについていちゃもんをつけてきたわけだが、「エアあやや」という芸は、まー嫌いじゃないし、はるな愛さんにはハロプロ芸人の雄──というか雌? やっぱり雄? ニューハーフだしなぁ──として、今後も頑張ってほしいのである。「エアあやや」が芸として成立しうるということは、「あやや」という記号が常識としてひろく一般に共有されていることを意味するし、それは、我々にとって大変晴れがましいことなのである。
 ただ一つだけ、はるな愛さんに言っておきたいことがある。もっとエアミキティも推してくださいっ!