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La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 après le 1er juin 2007

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モーニング娘。によるアイドルの脱構築
La déconstruction des idoles d'après Morning Musume.


痛井ッ亭。 itaittei.



0.1 序文

 モーニング娘。は「アイドル」であると同時に「アイドルを批判する存在」として、その活動と存在そのものを通じて、「アイドル」という概念、システムを脱構築する。
 本稿では、モーニング娘。という存在の批評性に重心を置きつつ、モーニング娘。による「アイドル」の脱構築の実態について素描し、その文化史的位置付けを試みる。

 (更新については、ある程度固まったセクションごとに、随時行うこととした。その理由は、完成前に挫折する可能性があることと、読者からの批判的フィードバックを期待していること。従って、すべての文章は、《進行中》のものであり、暫定版であって、常に変更修正される可能性があることをお断りしておく。)

[2007.07.09]

0.2 目次 (暫定版)

1 「アイドル」概念について

 モーニング娘。によるアイドルの脱構築。
 そこでは、「モーニング娘。」とは何か、「アイドル」とか何か、モーニング娘。によるアイドルの「脱構築」とは何か、がそれぞれ問われることになる。
 まず、準備的作業として、「アイドル」という多義的な言葉について、簡潔に整理することからはじめる。
 その過程で、すでに、様々な問題点が浮き彫りになるはずだ。

 (ここでは「アイドルと呼ばれる存在」の歴史的変遷ではなく、「アイドル」という語の概念、用法の変遷が問題となっていることに注意されたい)

[2007.07.14]

1.1 古典的概念

1.1.1 原義

 我々が用いるアイドル(Idol)という語の原形はラテン語の Idolum ,Idola であり、その意味は「偶像」、すなわち、神などの崇拝の対象を具体的に象ったものを指す。
 偶像とは、本来の崇拝の対象である目に見えない神の代替物として崇拝の対象とされるものであり、偶像崇拝は、誤りとして否定的に評価される。
 キリスト教の教義の中では、偶像崇拝は明確に禁じられる。旧約聖書の出エジプト記に出てくる「モーセの十戒」の中に、あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。…(中略)…それにひれ伏してはいけない。それに仕えてはいけない。との戒めが挙げられている。

 偶像崇拝は、誤った、否定されるべき崇拝であり、偶像は、崇拝の対象とされるべきではない。
 裏返して言えば、かかる禁止をあえて戒めとして掲げなければならないほどに、大衆は熱烈に偶像を崇拝していた、という事実がある。
 目に見えぬ崇拝の対象に、目に見える姿──しばしば魅力的な──を与えた「偶像」は、それほどに大衆を引きつける力を持っているのだ。
 このような「偶像」の代表例として、様々なマリア像やイエス像がある。仏画や仏像も偶像である。教会、十字架、神殿、神社仏閣、鳥居なども、それ自体が畏敬の念を呼び起こすかぎりで偶像性を持つと言えるだろう。

[2007.07.13]

1.1.2 ベーコンのイドラ

 16,7世紀のイギリスの哲学者ベーコンは、人間が囚われる先入見の分類し、それを「4つのイドラ」と名づけた。
 つまりここでは、イドラ idola の語は、「本来のあるべき認識を妨げる先入見、誤り」の意味に特化して使用されている。宛て先を間違えた崇拝の対象としてのイドラ。

[2007.07.13]

1.2 現代のアイドル 崇拝・執着の対象そのものとして

1.2.1 現代における本来的用法 俗化

 いつからか、アイドルの語は、「不可視の聖なる存在を見えるように象った像」という原義を離れ、生身の人間を対象として用いられるようになった。原義との間には大きな断絶がある。
 この生身の人間を対象とする「アイドル」という呼称は、原義からの転用で、意味は本来の語義からずれている。
 生身の人間である「アイドル」は、聖なる崇拝の対象の代替物なのではなく、アイドル自身が、まさに「崇拝」「憧れ」「執着」の対象そのものなのである。

 この、現代における「アイドル」という呼称の本来的用法の代表例は、「マラドーナ/ジーコ/中田はサッカー少年だった僕にとって永遠のアイドルだ」「ベイブ・ルース/長島/王は野球少年だった僕にとって……」など。そこでは、特権的な能力を有する存在が、そのずば抜けた能力のゆえに個人的な崇拝の対象とされているのである。
 ここで、崇拝の対象はすでに、宗教的な存在ではなく、世俗的な存在に移っている。

1.2.2 崇高性の喪失 「アイドル」の堕落

 生身の人間を直接指示する語となった「アイドル」からは、さらに、対象となる存在が特権的な崇高性を有するという属性すら失われ、単なる「人気者」を指し示す呼称にまで堕落する。
 次第に「崇拝」は薄れてゆき、単に「人気者」への「熱狂」「執着」という側面が相対的に浮上する。
 それでも、指示される対象への「敬称」であるという属性は辛うじて生き延びている。
 この「人気者」という意味での「アイドル」という呼称は、エルヴィス・プレスリー、ビートルズなど、ポピュラー音楽の分野で人気を得た存在に対して用いられることが多い。

 俗化された「アイドル」という呼称は他のジャンルでも用いられる。
 特に、目立つ用例は、女性の少ない場や領域などで、「掃溜めに鶴」「紅一点」的存在の女性に対して「アイドル」という呼称が用いられることである。例としては、「我が社(職場)のアイドル」「囲碁界のアイドル」など。

 さらに「アイドル」という語の使用対象には、動物も加わる。例:「××動物園のアイドル」「海岸に居着くようになったゴマフアザラシの××ちゃん」

 そして虚構の存在(非生命体)もそこに加わる。例:小説や映像作品、ゲームなどの登場人物、バーチャルアイドル等。

 この両者、「特権的存在」あるいは「人気者」への呼称として使われる語「アイドル」は、いずれも、「呼ぶ側」から「呼ばれる側」に与えられる、愛着を伴う敬称である点では共通している。
 「アイドルは作れない」というつんくの言葉は、この意味でのアイドルを指して言われている。
 それは、我々が作り出し受け手に届けるものはあくまでも「アーティスト」なのであり、それを「アイドル」と呼ぶか否かは受け手の問題である、という基本的な態度の表明である。

[2007.07.14]

1.2.3 物象化 現代的「アイドル」の成立

1.2.3.1 定義付けする主体の転換

 本来、ある存在を「アイドル」と呼ぶか否か、アイドル視するか否かは、受け手の側の問題であった。
 しかし、大衆情報化社会において、メディアに取り上げられることで著名となり、人気を得た存在が、圧倒的多数の大衆からアイドル視されるようになると、「アイドル」と呼ぶか否かは、個人的な主観レベルの問題ではなく、客観的に判断されるべきものであるかのような様相を呈する。
 個人は、その存在が「アイドル」であるか否かを判断する主体の位置を、明渡す。
 判断権者は、不特定多数からなる「世間」へと移り、世間の声を集約、代表する(と称する)メディアの側へと移り、やがては、「アイドル」をメディアへと供給する制作者側へと移っていく。
 そこには、物象化が見られる。

[2007.07.16]

1.2.3.2 物象化

 物象化とは、「人と人との社会的関係」または「人と物との社会的関係」のもつ性質が、日常的意識の中では、あたかも「物自体が備えている性質」であるかのごとく意識される、一種の錯覚、錯誤を言い表わす概念である(物象化的錯認)*

 例えば紙幣は、それが一定の財物と交換可能であるということに対する信用(それは貨幣を交換する人と人との関係であり、使用する人と貨幣を発行する者との関係である)、つまり発券銀行に対する信用が保証されてはじめて価値あるものとして流通可能なのだが、物象化された日常的意識のレベルでは、紙幣という「物そのもの」に価値が内在しているように感じられる**

 物象化された意識においては、物象化された「関係」は、「実在」として認識される。

 では、アイドルの物象化とは何か。
 アイドルとは、本来、受け手がある対象を崇拝し、執着する場合に、その対象に対して与える敬称であり「アイドル性」は、崇拝という関係性の中にこそ存在するのであった。
 すなわち、「アイドル性」は、対象と、個々の受け手との間に成立する関係性であった。
 しかし、ある歌手なり、スポーツ選手なりが、多くの人々から崇拝の対象として意識される時、あたかも、その対象そのものの内在的性質として「崇拝されるべき性質」が、実態的に備わっているように意識されるようになる。そのことを、ここでは「アイドルの物象化」ないし「物象化されたアイドル性」と呼ぶ。
 この「アイドルの物象化」は、定義付けする主体の転換と表裏一体の関係にある。
 誰もが崇拝している対象は、自分が、その対象に崇敬の念を抱くにせよ抱かないにせよ、そのような主観的事情とは無関係に、崇拝されるべき実質を備えているのであろう(物象化)。
 対象が、客観的に崇拝されるべき性質を備えている以上、自分がどう感じるかは、主観的事情に過ぎず、問題ではない(判断主体性の放棄)。

 現代的な「アイドル」は、このアイドルの物象化現象を前提条件として成立する。つまりアイドルの物象化がなければ、カテゴリーとしての「アイドル」が成立しえない。

脚注

 *廣松渉『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書,1990)p81以降の記述を参照。
 **ただし、錯認とは言っても、それは恣意的ではない。物象化には、根拠があり、一定の条件下では、起こるべくして起こる。例えば、貨幣は何故、価値あるものとして流通しうるのか、そのメカニズムを正確に理解したり教えたりするよりも、「お金を大切に」と教え、お金そのものに価値があると考えたほうが、余程話が早い。また、それで事足りる。つまり、物象化が起こる原因としては「思考の経済」という要因が働いていると考えられる。アイドルが物象化するのにあたっても、いちいち自分で評価判断するよりも、通り相場に従っていたほうが楽だし、間違いも少ない。物象化を受け入れることで、人は「判断する主体性」という重荷から解放される。

[2007.07.16]

1.2.3.3 原義そのものに含まれる物神性

 そもそも不可視である崇拝の対象(神などの超越的存在)を実体化し、可視化する装置が偶像(アイドル)である。
 例えば、聖像、聖遺物、仏像、お地蔵様、墓石など、本来それ自体はただの物であり、信仰や崇敬の対象そのものではない。
 しかし、人は、それらに畏敬を感じる。何の躊躇いもなく仏像を打ち壊したり、墓石を穢したりはできない。人は、自ら無神論者を以って任じていてすら、それらの「偶像」を毀損することに躊躇いや不吉な感覚を覚える。それらの「偶像」そのものに聖性を感じるのである。
 つまり、我々の日常的意識の中では、仏像や、墓石、(あるいは神社、あるいは十字架)などの「偶像」そのものの性質として「聖性」が内在しているように、すなわち「偶像」そのものが聖なるものであるように感じる。それほどに、我々の畏敬の念は、「偶像」のなかに物象化されているのである
*
 すなわち、「idolum 偶像」は、「偶像崇拝の対象」という原義において、そもそも物象化されている。
 人類が普遍的に有する物象化的錯認傾向の結果として「偶像」が生みだされる。

脚注

 *偶像(アイドル)を拝むという、具体的な行為の効果として、結果的に信仰心(崇拝の念)が確認され、補強され、あるいは醸成されるということも、「偶像」の果たすべき機能として最初から期待されているのかもしれない。その点は、本稿の主題ではない。

[2007.07.16]







7 参考文献表

廣松渉『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書,1990)






[2007.07.09更新開始]