La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 chapitre deux





強がり 小説=批評

痛井ッ亭。

でも私、別に、しっかりなんてしてない。 ──中澤裕子

1.

 客席の明かりも落ちた上映間際の場内に駆け込み、壁際の狭い通路を通って辿り着いた最前列の空席──ひとつだけ空いている見やすいうしろよりの座席はちょうど列の中央で、そこまで辿り着くのも面倒くさいし、それなら目が疲れるほうがまし──に座ったときから、座席の調子が思わしくない。
 スプリングの加減か、最初からそういう座りごこちのシートなのか、とにかくお尻が痛くて、どう座り直しても腰が落ち着かずに困っていると、スクリーンを隠していた薄いカーテンが左右に開きはじめ、小さな場内を埋めている観客から押し殺した咳払いが聞え、そして静かになる。最前列の自分が身動きしていればさぞ目障りだろうと思うと、これ以上楽な姿勢を探るのも憚られ、優子は泣く泣く痛い座席にお尻を──なるべく体重は預けないように──落ち着ける。これが冬場なら脱いだコートを畳んで座布団がわりに敷くことも出来るけれど、あいにく真夏でこれ以上ない薄着──胸元にシャーリングが入っていて背中一面に金色のアルファベットを配した黄色のタンクトップに、ダークオリーブグリーンの薄い綿のサブリナパンツに、スニーカー──なのでどうすることもできない。
 映画への期待で、場内の空気がピンと張りつめていき、自分も痛みを忘れて集中しようした矢先、スクリーンには不意に、一面の緑の中の砂利道が現われ、低い声のフランス語の独白がはじまり、画面の右端に字幕独特の角張ってひしゃげた文字が映し出される。集中しなければと焦るほどに、痛みが意識の隅で自己主張して、映画に集中するのはすでに至難の業としか思えない。まばゆいレマン湖のほとりの景色が映し出され、フランス語が飛び交い、童謡を歌う子供の声が聞え、そして、突然黒くなった画面に何文字かのアルファベットが映し出される。
 字幕には「何と悲しいことだ」の文字。
 こっちが悲しいわよ、と優子は心の中でつぶやく。
 なんと悲しいことだ。まったくね。

 だいたい〈やぐち〉が悪い。
 彼女さえ付合ってくれれば今日は、ショッピングして、そのあと女同士で美味しいフレンチかイタリアンでもいただいて優雅な気分に浸っていようものを、いったい何が悲しくて一人かたい椅子と格闘しているのか。
 たしかに前日の夜に思い立って急に連絡しても、先約があったり仕事があったりするのは当たり前だし、彼女を責めるのは筋違いだけれど、それにしても「近いうちに遊ぼう」と約束してからずいぶん経つというのに、遊ぶどころか一緒にランチを食べてすらいないわけで、つい、いいよどうせこんなオバサンなんかと遊んだってつまんないだろうしね、と卑屈になって、それでますます老け込んだ気分になるのだ。ちっ。まだそんなトシじゃないっつうの。
 やっぱり〈あのばか〉に会ってもよかったかな。電話が来たのは昨夜、真里を誘ってあえなくフラれた直後、しょんぼりと冷蔵庫から缶ビールを取り出した矢先だったのだが、普段ならケータイが鳴ってもまず出たりしないし、「あー。鳴ってるなー」と思いながら諦めて音が止むのをじっと待っている習性なので、真里なら電話する前に「今電話するから出てね」とメールを寄越すほどなのだけれど、昨夜珍しく電話に出たのは、真里にフラれた反動で人恋しかったせいなのか、それとも〈あのばか〉の声が久々に聞いてみたかったせいなのか。まさか。
「はい」「もしもし、優子、オレだけど」「オレって誰? しかも優子て呼び捨てか?」「わたくしアベヒロシと申しますがナカマユキエ様でいらっしゃいますか」「何の用なん」「飲んでるのか」「悪い?」「明日ヒマ?」「なんで?」「どうせ一人でヒマしてるだろうと思ってさ」「おあいにくさま」「なんだよ新しい男でも出来たのかよ」「あんさんには関係あらしまへん。ぷはー。うまっ、染みるー」「やっぱりそうか、いや、ちょうどよかった、オレもまだ独りだしさ」「いやいやおるから、新しい男。おるおる、もースッゴイおる」「つまんない意地張るなよ優子」「いなくても、別に淋しくないしね。独りで映画見て御飯食べて飲みに行っても全然楽しいし」「強がってるし。たまには会ってくれてもいいだろ、友達としてでもさぁ」「だって」だって、会ったら甘えちゃいそうなんだもの。それはイヤ。あたしのプライドが許さへん。いや、何のプライド? っていう話やけど。
 意味のない応酬のあとで──もちろん何も約束せず──電話を切ったのだが、こうして昔の恋人がたまに電話をくれることは、嬉しくないこともない。気にかけてくれるのは悪い気はしない。かといって、よりを戻そうとか普通に会って遊ぼうとは全然思わないのだけれど。
 しかし、こんなことなら〈あのばか〉を誘っておいてもよかったような気がしてくる。芸術なんてこれっぽっちも分からないくせに──目くそ鼻くそを笑うやな──「文化の香り」には滅法弱い〈あのばか〉なら、ほいほいついて来ただろうし、あんな奴でもいれば気が紛れて、かたい椅子に耐えるのが多少は楽になるかもしれない。冷静に考えれば、その程度の理由で〈あのばか〉に再会する筈もないけれど、そんな空想が頭をよぎるのも何もかもこのかたい椅子が悪い。
 おまけに、なるべくお尻に体重が掛からないような不自然な姿勢で足に力を入れているせいで、そうでなくても新調したばかりの靴のかかとの生地の縫い合わせが雑で、痛くなっていたかかとがますます痛く、ついでに腰まで痛くなってきて、どう考えても、落着いて芸術映画を鑑賞していられる状況ではない。
 一面の緑の中で赤い花が風にそよいでいようが、鼻の大きな全能の神ゼウスが、人妻を誘惑しようと画策していようが、既に他人事としか思えず、おまけに椅子に気を取られていて気がつかなかったが場内はクーラーの効きすぎで肌寒く、タンクトップから剥き出しの腕も胸元もすっかり冷え切っている。
 隣の若い女の鞄の中でケータイが震え出し、慌ててリュックのポケットからケータイを取り出そうとするのがやけに気になり、電源切っておけよバーカ、と心の中で悪態をつくのだが、そんなことはお構いなしに隣席の女がメールを打ちはじめると、小さな液晶画面の光が気になってたまらず──自分だってさして映画に集中してはいないとはいえ、だからといって腹が立たないものでもない──思わず真横に向き直って若い女を睨みつけそうになる。
 場内の照明が付き、ようやくかたい椅子と隣席のバカ女から開放され、映画館を一歩出ると、外気の蒸し暑さが冷え切った肌に逆に心地よかった。

 少し散歩でも。それから小洒落た喫茶店でハーブティーを。しばらく歩くと、大きな通り沿いのインテリアショップのウィンドウの中に、目の覚めるような真っ青な椅子──バーのカウンターにあるような一本足のスツール──を見つけ、この青い椅子は私のうちに来るべきなのだ、わたしがみつけるのをここで待っていたのだ、と確信して、吸い込まれるように店の中に入っていった。

 近所のピーコックストアで一人用の小さなお惣菜──イカフライ、エビチリ、レンコンのきんぴら、オクラ入りのポテトサラダ──を買って帰宅すると、鍵穴にキーを差し込む前から、小梅がパタパタと玄関に駆けてくる足音が聞え、ドアを開けると、わん、と鳴いて抱っこをせがむので、靴も脱がず買物袋だけを玄関脇に置き、その時下駄箱の上の、鹿のフンのような茶色いハイドロボールを入れて観葉植物──プテリスっていうの、「無印良品」で買ったんだけど、と〈やぐち〉がプレゼントしてくれたもので、葉っぱが中心に行くにしたがって白くなっていて可愛い──を植えてある小さなガラスコップと、何日も封も切らずに置いてある白い封筒と、はやく用がないことを確認して次の住人に回さなければならないマンション内の回覧板が視界に入るのだけれど、気がつかなかったことにして、よいしょと抱き上げるとペロペロと顔中を舐めまわす小梅に「小梅ー、今帰ったよー。いい子にしてたー?」と〈猫撫で声〉で──チワワだけど──話しかけ、今にもこぼれ落ちそうな大きな目をのぞき込んでから、小梅の鼻に自分の〈犬ッ鼻〉を擦り合わせて挨拶をする。ついでに匂ってみると結構ケモノ臭い。そろそろシャンプーしてあげなきゃ。小梅を床に降ろすと、パタパタと部屋に戻る小さな後姿が愛くるしい。
 どっかりと腰をおろしてしまうとそのまま何もかもが億劫になってしまいそうなので、メイクを落し、シャワーを浴び、髪も洗い、何もかもすっきりしてから、座卓の上に買ってきたお惣菜を広げ、冷蔵庫からビールを出してくる。風呂あがりで半裸に近い恰好だというのに、それでも耐えられないくらい暑くて、ついエアコンの設定温度を目一杯低くしてしまう。
 小梅用の大きめの深皿に、ドッグフードと新しいお水を用意してあげて、一緒に夕飯を食べはじめ、冷凍庫で冷やしたグラスでビールを飲みながら、自分の腕にふと目を落すと、左右とも微かな産毛がうっすら金色に光っている。
 〈あのばか〉は、いよいよ別れるというとき、そんな優子が理想とするような、優しくてたくましくて包容力があって頼れる男なんて空想の産物だ妄想だどこにも実在しない、と言い切ったのだった。だからここはひとつ大人になってオレぐらいで妥協しておけ、という意味──もしかしたら遠まわしにも程がある、遠慮がちなプロポーズだったのかしらね──なのだけれど、その時優子は、いいやおる、どこかに絶対おる、いつかきっと出会う、と宣言して〈あのばか〉と別れたのだった。今のところどちらに分があるかと言えば、向こうにあるということになりそうだけれど、勝負は最後まで分からない。わたしが負けました、参りました、というまでは負けじゃないし、だいたい、負けましたなんて絶対言わへんし。
「な、小梅」
 と話しかけても、要領を得ない顔をしている小梅に、
「小梅も飲むか?」
 小皿にビールを少しだけ入れて、あげてみると小さな舌でペロペロと舐める。まんざら嫌いでもないらしい。犬ってお酒飲むんやな。
 ビールの缶を置いてあった跡が、座卓のガラスの天板の上に丸い水の輪を作っている。その輪を、見るともなく見ながらビールを飲んでいると、急に小梅がクシュンとくしゃみをした。クーラーの冷気が下に溜まって寒くなったらしい。でも人間様にしてみればまだまだ嫌になるほど暑い。ビールを飲んでも暑い、裸になってその下の皮膚をもう一枚脱ぎたいぐらい暑い。でも、小梅が風邪をひいてはいけないので、膝の上に抱き上げて──犬をだっこしているとクーラーの意味がないくらい暑いのだけれど──鼻を触ってみる。耳から伸びた長いふさ毛や首の周りの毛を撫で、その温かい毛皮の固まりを抱きしめると、小梅は少し苦しそうに、くうん、と鳴いた。

2.

 白地に大きなバラ柄をあしらったシルクサテンの膝丈タイトスカートの上に、スカイブルーのアメリカンスリーブのサマーニットを着て──夜の服装を想定してブラはストラップを取り外せるもの──パール色に塗ったネイル──本当は昨夜のうちに黒地に金色でヒョウ柄を描きたかったけれど、ビールを飲み過ぎて面倒くさくなったので妥協した──を傷つけないように注意しながら、お気に入りの銀色のサンダル──細いストラップに足先を引っかけるように履く靴で、手とお揃いのパール色のペディキュアを塗った爪先がむきだしの──を履いて、全身が映る姿見でチェックする。よし。玄関先まで小梅が見送りに来たので、抱き上げて、いい子にしててな、と言い聞かせ、口紅が移らないようにそっとキスをする。下駄箱の上の白い封筒が目に入り、ああ、あるなあ、はよ読まな、と思うには思うのだけれど結局は回覧板もろとも放置して、そのまま部屋を出る。

 駅に着くまえから人の多さに気持ちが暗くなり、人の波に押し流されるように電車に乗ったときには、馴染み深い不快感が喉元にせり上がってくる。いったい何年山の手線に乗っているのか。せっかく出社時間に融通のきく職業なのだから、ラッシュを避けて電車に乗ればいいだけなのに、逆にラッシュを経験する機会が少なくて油断しているのか、ついうっかりラッシュの電車に乗り合わせてしまうことが──もちろんそうせざるを得ない場合も含めて──今でも時々あるのだった。
 胸の前に抱えたブランドのロゴ入りの大きな紙袋──昨日の夜真里から電話で、明日飲みに行かない? と誘われて、二つ返事で行くことにしたので、まさか夜遊び用の服装で出社する訳にもいかず、着替えを袋に入れて持っていくことにした──が、隣の乗客の背中との間でぺしゃんこになっているが、中身は服だけなので壊れる心配はないけれど、押されて胸が苦しい。
 それにしてもこの人の多さはなんなのか、ラッシュ時の山の手線に乗るたびに〈東京は魔物が住んでいるから人が住むところではない〉というどこで聞き覚えたのも定かではない文句が頭に浮かぶ。だからといって、田舎に帰りたいとも思わないけれど。
 思わないけれど、次に停車した大きな駅のプラットホームで、この電車に乗り込もうと並んでいる背広の列の長さに、心の中で、君らまさか全員乗り込むつもり? あたしを圧死させる気? やっぱり田舎に帰ります、と泣き言を言うのだったが、人間やって出来ないことはないというか、1ミリの隙間もないと思われた車内にどんどん人は乗り込んできて、圧力の上昇を肌で感じているうちに、みっちりと乗客を詰め込んだ電車のドアが閉まり、次の駅へ向かって動き出す。
 あまりの息苦しさに、こんなことなら私も自転車で通おうかな、とも思うが、ラッシュにさえぶつからなければ電車のほうが楽だし、だいたい自転車だといったいどれくらい時間が掛かるのか、それに会社に着いてから汗だくの服を着替えることを思うと面倒くさくて、一度試してみる気にもならない、というのが本音だった。
 カーブを抜けるとき乗客の姿勢が一斉にカーブの外側へと傾き、隙間がないおかげで、他人に体重を預けてしまっても転ぶ心配だけはなかったけれど、次の大きな駅でどっと人が降りてしまうと、こんどは逆に転倒が恐くなって、目の前で揺れていた吊革に手を伸ばす。
 吊革に掴まっている自分の左手。パール色のネイルは綺麗に塗り直したばかりだし、手首にぶらさがっている黒く細いベルトが二重巻になっている時計は可愛いし、白い腕には目立つシミだってないし、かすかな産毛が日の光を反射して、金色に光っているのもなかなか悪くない風情。
 腕の中からずり落ちそうになる大きな紙袋を抱え直したとき、ふと視界に入った女子高生の顔がやけに赤い。視線を落すと、白い太ももをこれ見よがしに露出しているセーラー服の短いスカートの、ちょうどお尻の盛り上がった場所に、男の手があった。え、いやだ、何? と焦っていると、お尻の丸みにそって動いていた手がスカートを捲り上げ、白い下着が見えてしまう。少女が顔を赤くしたまま目をぎゅっとつむって何も言わないのをいいことに、お尻の割れ目に沿って上下に動いていた手が、下着の中に潜り込もうとする。
 一瞬見て見ぬふりをしようかと躊躇したのだが、目の前の少女が覚えているであろう羞恥心と屈辱を思うと、怒りで我を忘れ、とっさに大声を出していた。
「ちょっとあんた何してんの!」
 そう言って、痴漢の手を取り押さえようとしたとき、ラグビーでもやっていそうな屈強な感じの男性が、その痴漢の手を軽々とひねりあげていた。

3.

 午前中の閑散とした編集部で一人黙々とゲラに赤を入れていると、思いがけず仕事がはかどってしまい、勢いをかって先日取材した時の録音テープの書き起こしもやってしまうことにする。ヘッドフォンをつけてフットペダルでテープの再生と巻き戻しを切り替えながら、耳に入ってくる声をキーボードで打ち込み、目ではモニターに映し出される文字を追う。テープの声に集中しているうちに、取材相手の表情や、手の甲のホクロに生えていた白い毛や、窓の外の木に咲いていた花の色や、緑などほとんどないビル街のどこからか聞えてきた小鳥の声──テープには記録されていない──が脈絡もなく思い出され、タイプする手が止まり、テープを聞き流して無関係なことを考えはじめている。
 白い太ももをこれ見よがしに露出しているセーラー服の短いスカートの、ちょうどお尻の盛り上がった場所を撫で回す、浅黒い色の男の手。お尻の丸みにそって動いていた手がスカートの端から股の間に潜り込み、ずらすようにスカートを捲り上げていく。白い下着。赤く染まる少女の頬。お尻の谷間をなぞるいやらしい指。それらの残像が頭の中に焼きついている。あー、ダメだダメだ。
 いや。それにしても。まさかねえ。
 心の中で頭をブルブルと振り、気を取り直して、聞き取りづらいテープの声に耳をすます。
 最後まで打ち終え、今打ち終えた文章にもう一度目を走らせて確かめ、ふうー、と息を吐いて、ヘッドフォンを耳から外したとき、背後から肩をつつかれ、ビクッとして後ろを振り向くと、橋本編集長だった。
「わっ。びっくりしたー」
「そんなに驚かなくても。こっちが驚いたよ。何かやましいことでも?」
 山の手線での出来事を思い浮かべていたせいで焦った、という事情を、編集長に説明する気にはなれない。
「今日はやけに早いね」
「編集長いつからここに? いるならいると言って下さいよ。心臓に悪いわ」
「いや、集中しているようだったから声を掛けそびれて。悪かった。急ぎの仕事?」
 印刷会社の担当が、預けた原稿を今朝の十時に返しに来る約束になっているのにまだ来ないのだ、と説明する。喋り出すとつい弾みがついて、本心以上に怒った口調になってしまう。〈ゆーちゃん切れキャラ〉だから。
「お蔭で仕事がはかどっちゃいましたよ、もう」
「結構なことじゃない」
「それはそうですけど、もうすぐお昼ですよ」
「どうせ午前中は誰も出社してないだろうと踏まれてるね」
「あー。確かに」
 そう思われてもしゃあない。普段が普段やし。

 やがて、他の編集者たちも出社し始め、それぞれに挨拶やたわいない雑談を交わし、そして自分の仕事へと散っていく。
 入稿期限確認の電話──気のあうライターとは、雑談もつい長くなる──を何本か掛け、とりあえず手持ちの仕事が片づいてしまったことに気づくと、来月以降の企画を練るための資料収集をすることにして、パソコンをネットに接続し、雑多な資料を閉じ込んだバインダーを机の上に広げた。さて、と頭を切り替えようにも、企画を考えるのが苦手な優子には、そうそう使えそうなアイディアなど浮かんでくる訳もなく、気がつくと全然意味のないことを考え続けている。
 三つ揃えの背広を着たその紳士は、ラグビーでもやっていそうな屈強な感じで、落着いた物腰だったけれど堂々としていて何が起っても慌てたりしなさそうで、その彼が、女子高生のスカートに伸びていた手をやすやすとひねりあげると、その手の持ち主──見た目は真面目そうな、むっつりすけべタイプの中年男──は不自然な姿勢で体をねじ曲げたまま、痛たた、痛いってー、放してくれよー、と情けない声をあげたのだった。最低。「痴漢男」を(「被害者の女子高生」も一緒に)引き渡した駅員さんに、お二人はもう結構です、ごくろうさまでした、と言われて立ち去り際、一緒に痴漢を逮捕した背広の紳士と目があったけれど、お互い気まずくなってすぐに目を逸らした。きっと彼も内心は唖然としていたのだろう。一言二言、言葉を交わして。じゃあお疲れ様でした、と苦笑混じりに言い残し。急ぎ足で立ち去る彼の背中。

 背後に谷川副編集長が近づいてくる気配を感じて、とっさに背筋を伸ばし──室内履きにしているナース用のサンダルを履き直して膝頭を合せて座り直したのはさすがにやりすぎ──頭の中を仕事モードに切り替え、話しかけられたときにどんな声で返答するのか頭の中でシミュレーションも済ませて、敵の出方を待つ。さあ、いつでも来いや。
「田澤さん」
「はい」
 熱心に資料を読んでいる姿勢のままで顔も上げずに返事をし、一拍置いて、おもむろに振り向き、まっすぐに彼女の目を見上げながら、落ち着き払って、お早うございます副編集長、と言った。完璧。
「例の、パイン豆乳ローションの件なんだけど」
「あー。あれッスか」
 その話と分かって安堵したせいで、ついつい口調も軽くなった。副編集長じきじきのお達しにより部内の女性全員が「ムダ毛が目立たなくなる効果」があり「古い角質が取れて、お肌がつやつやすべすべになる」というパイン豆乳ローションの効能を試していて、右腕や右脚にはそれを、左側には別の種類のローションを使って比較し、対照実験している最中なのだった。
「いやー、あんまり効果分かんないですね。ほら、わたし、もともとムダ毛薄いし。お肌もつやつやなんで」
「あら。言うわね」
「事実ですから」
「わたしは試した次の日には効果を感じたけど」
「こういうものは、ほら、相性があるじゃないですか」
「それもそうだけど」
 編集部室の入口で、やっほおーい、という元気のいい声が聞えた。背のちっちゃい女の子が、スキップでもしかねない勢いで入ってきて、すれ違う人全員と威勢のいい挨拶を交わしながら、編集長にもきちんと愛想を言い、それからこちらへ向かってくる。真里だ。
 誰のことも名字に「さん」付けで呼ぶ谷川副編集長ですら、真里のことは大沼さんではなく、真里ちゃん、と呼ぶ。ここでは優子も彼女のことを真里ちゃんと(でなければ、本人の意向である〈まりっぺ〉と)呼ぶのだし、真里は真里で優子のことを田澤さんとか優子先輩とか呼ぶ。
 挨拶もそこそこに真里はパイン豆乳ローションの悪口を──彼女はこの編集部の所属ではないのだが、ノリのいい性格が災いして何故か実験に付合わされている──言いはじめた。
「いやー、まいった、コレ。匂いが甘ったるくてさ、ハエが寄ってきそうだよー。まったく一体誰が、こんな実験……」
 優子が目配せし、谷川がコホンと咳払いをした。一瞬、ヤバイ、という表情を見せた真里が得意の笑顔で誤魔化してさり気なく別の話題に移ろうとすると、谷川が、さも今気づいたという口調で、あれ、真里ちゃん、手首のテープは? と白々しく問いかけた。谷川の両手首にはサージカルテープを小さく切ったものが貼ってあり、右には「パイン豆乳」左には「アロエ」と端正な文字で書かれている。それは、左右どちらにどのローションを使ったか間違えないために貼っておくように、と谷川が全員に指示したものだった。真里も、自分の何も貼っていない腕に今気づいたというフリで、あれ、おっかしいなあ、としらばくれて、谷川の膨れっ面を見て苦笑しながら言い訳をはじめた。
「だって見苦しいじゃないですか。あまりにも。それに、テープつけてなくても、ほら、匂いで分かりますよ。この──ウッ──甘ったるいほうがパイン豆乳で、こっちのがへちまッスよ」
「で、使ってみてどうなの? 結果は」
「いやー。正直よく分かんないッス。だっておいら、もともとムダ毛も目立たないし、ほら、まだ若いから、お肌ぴっちぴちだし」
 それを聞いた優子が、谷川と顔を見合わせ、同じこと言ってる、と爆笑すると、調子づいた真里が、シャワーの水だってパッツンパッツンはじきますから、なにせ。優子先輩だって、ねっ? とからかい半分で同意を求めるので、調子を合わせて、わざと暗い声で、あー、たまにはじかない、と応える。部内に広がる笑い声の中に、編集長の声が混じっていたので、振り向いて、キッと睨みながら、編集長、いま笑いました? と問いただすと、編集長は笑顔をこわばらせながら、あ、え、その、と口ごもるのだった。
 谷川が、困った、それじゃあ美容記事として成り立たない、と言い出したので、優子が、いや、そもそも部内の実験で美容記事をでっちあげようという発想自体に無理がある、とツッコミを入れると、じゃあ、かわりになる企画をあなたが立ててよね、と反撃された。
「『食べてキレイに 働く女性のための隠れ家的名店ベスト5』なんてどうです。お肌にいい食べ物が食べられる美味しいお店を探すってことで。イカですよイカ。それにタコ、鯛の頭、カブト焼きとかコラーゲンもたっぷりで。それをアテに、こう、人肌に温めた純米酒を、くいっ、と……もうもうもう。どうでしょう、お客さんっ!」
「人肌以下の説明は余計ね。食べ歩きか。目新しさに欠けるな。同じ食べるなら『食べてキレイに ヘルシー献立一週間(突撃クッキング隊)』とか、どうかしらね」
「それって、実際に料理をして……あー、無理っす」
 編集長が離れた席から話に割り込んでくる。
「田澤君じゃ、討ち死にクッキング隊になっちゃうよ。なあ?」
「編集長、それはいくらなんでも」
「言い得て妙だわね」
 真里までが調子に乗って、
「じゃあ『食べてキレイに 身近な食品を見直そう 第一回:バナナ編』がいいんじゃない」
 と意地悪を言う。
「ちょっと、なんの罰ゲーム? バナナて。ってか、無理だから! やっぱり食べ歩きが無難ですよ。編集長、どこかいいお店知りません?」
「じゃあ下調べを兼ねて、今夜あたりみんなで繰り出そうか、久々に」
 やる気まんまんの編集長の誘いに、女性部員全員の間に微妙な空気が流れ、優子と真里も、目を見合わせた。
「わたし、最近めっきり食が細くなっちゃって。無理なグルメ取材を重ねた反動ッスかね。」
「あれ。食べ歩き取材をしようという人の言葉とは思えないね」
「いやぁ。昔よりは全然食べなくなりましたよ」
 要するに、編集長のお誘いはせっかくだけどお断りしますという気持ちを言外に匂わせると、編集長もそこまで鈍感ではないし、常識的な大人なので、それ以上しつこくは誘わない。
 ところが間の悪いことに、真里が急に思い出したように、自由が丘にある有名洋菓子店が今度デザートビュッフェを始めたので、こっちの雑誌で取材しましょうよ、と言いはじめ、副編集長までが、取材はともかく、みんなで一度行ってみましょうか、などと言うので、部内の空気が俄然活気づく。真里が、田澤さんも行きますよね、とわざわざ確認したのは、優子が実は甘い物が得意ではないことを知っているからなのだけれど、そう訊かれた優子は──真里に誘われればどこ行くんでも何を食べるんでも断わるわけないやん──行く行くもちろん行く、と笑顔を返す。
「あれ。今、食が細くなったって話してたばかりなのに、食べ放題?」
 と編集長が不機嫌そうに皮肉を言う。
「ケーキは別腹っす」
「だよね」
「どんなにお腹キツくても、ケーキが入るスペースだけは空いているのよね」
 と女性部員が口々に言い合い、
「そんなもんかねぇ」
 と半ば呆れ気味の編集長に、全員声を揃えて、
「そんなもんです」
 と答えた。

 憮然としている編集長を一人取り残して、近いうちに日程を決めましょう、とデザートビュッフェの話は終了し、副編集長が自分の席に戻ると他の部員たちも三々五々自分の仕事に戻っていった。
 真里が優子の耳に顔を近づけてきて、編集長の誘いを断わった手前、ひそひそと小声で今夜の予定を確認する。
「ちゃんと可愛い服持ってきた?」
「ばっちり」
 そこで真里は一瞬間を置き、少しバツの悪そうな顔をした。
「で。あのね。荒川さんも一緒なんだけど……いいよね?」
「荒川君? あーいいけど。あれれ、もしかして二人、いい仲なん? ん? ちょっとぉ、どうなのよぉ」
「そんなんじゃないから。誘われちゃったんだけど、二人っきりじゃ何かとヤバイかな、って」
「じゃあ何、わたしはお目付役?」
「まあそんな感じで」
「オーケー。お昼、もう食べた?」
「まだだけど。あー、ごめん、これから出掛けるんだ。久々に本業のカメラでさー。夏木さんの取材のお供なの。だから出先で適当に済ませると思うよ」
「なーんだ、残念」
 上の階──二十代向けファッション誌の編集室がある──から降りてきた、夏木の姿が入口に現れた。
「真里ぃ! もう行くよー! 準備終ったかい?」
「あー、なっつぁん! 今行くよー」
「もー、油売ってないで早くしてよー」
「今行きます! 今すぐ行きます!」
 そして優子にそっと、という訳なんで、じゃあね、と言い残すと、出口に向かって走り出した。優子はその後ろ姿が廊下に消えていくのを、黙って見送った。

4.

 〈小梅〉ちゃん元気? 元気元気、相変わらず呼んでも来ぃひんけど。鳩サブレーは? いやいや、〈クッキー〉だから、──真里が飼っている毛並みがよくて元気にじゃれついてくるヨークシャーテリアで、とはいえ同居しているお母さんがほとんど世話しているらしい──と、お互いの〈目に入れても痛くない〉愛犬の無病息災を確認しあいながら、更衣室の大きくはない鏡の前で二人並んで、髪と化粧を直し、着替えた夜遊び用の服──小柄で5号がぴったりの真里はもちろんいつも服を探すのには苦労していて、可愛い服の並んだお店が9号ワンサイズだといつも怒っているし、7号をゆるそうに着ていることもしばしばで、それ5号? と尋ねると、一着だけ残ってたの、と感涙にむせぶ真似をする──をチェックして、口々に、ねえ、おかしくないかなあ、いやいや似合ってるよー、可愛いよー、と言い合っていると、自分の横で、体を押しつけあうようにしながら鏡を覗き込んでいるちっちゃな〈やぐち〉が、鏡の中で笑顔──本人は笑顔が苦手だといってるけど、冗談じゃない──の練習をする姿はいとしくてたまらないし、これから彼女と久しぶりに夜の街に繰り出すことを思うと、気持ちが自然と浮き立ってきて、真里が、そうそう、荒川さん、取材でちょっと遅くなるって連絡があった、と言ったのには、ふーんそうなん、とまったく気のない返事を返す。
「今日、取材でさあ、取材先のオヤジに気に入られちゃって、飲みに誘われてさー、危うく戻って来れなくなるところだったよ、ひー」
「命からがら逃げ帰ったんや」
「おいらはね。でも、なっつぁんは、ほら、取材する当人だからさー、まだまだお話したいこともありますし、とか言われたら断わり切れないじゃん?」
「えーっ、連れ去られたん?」
「銀座のお高い料亭方面だと思うよ、今ごろ」
 それはたいへんやなぁ、ご苦労様なことで、と言いながら、イヤリングを耳に着けている〈やぐち〉の、鏡の中の左手にふと目を留めると、爪が白地に黒い斑点のホルスタイン模様だった。
「あら。その爪、牛やんか。いやぁん、可愛いー」
「でしょー。右手はこうだよ」
 見せてくれた右手の爪は、ブロッコリのような鮮やかな緑色一色に塗られている。優子が、ひらめいて、それってもしかして、と言いかけると、真里は、鏡のほうに手の甲を向けて十本の指を大きく広げながら、なちっとまりっと、と叫び、誇らしげに頬を膨らませながら、横目で優子の様子を伺う。
「ネイルで一発芸かよ」
 と呆れながら笑い転げる優子に追い打ちを掛けるように、真里は、牛(左手)とカエル(右手)の会話を演じてみせるのだった。

 真里に案内されて着いた店は、炉端焼き風の居酒屋といった感じで、暖簾をくぐると、小さな店内は、懐に余裕のありそうな落着いた背広姿の中年男性──旨いものを知っていそうで、この客層なら味にも期待が持てそう──で賑わっていて、優子たちのような若いギャル風のファッション──わたしがギャルかどうかはともかく──で店内に入ると、一面灰色紺色茶色で淀んだ湿地の中に、そこだけ原色の花が咲いたよう──真里はお腹にラメ入りのパッションピンクで大きなハートマークが描かれていて背中ががばっと開いた黒地のホルターネックキャミに、裾を紐で結ぶようになっているだぶだぶの迷彩柄カーゴパンツ、足元は安全靴みたいにごついスニーカーで固めていて、対する優子は、お気に入りのヒョウ柄のベアトップに、ふくらはぎの部分でぴったりとすぼまっている裾の両外側にスリットが入ったデザインが可愛い白いサブリナパンツに、例の銀色のサンダルといういでたち──と言えば聞えはいいが、ようするに「浮いて」しまって、目立つことこの上なく、酔客たちの集まる視線をかわすように肩をすぼめながら、カウンターの中から采配を振るう店主に勧められるまま、店の奥のほうの小上がり席に向かった。
 待ってなくていいから、と荒川さん言ってたよ、という真里の言葉に、ではとりあえずジョッキ二つ、と注文をして、さてさて、と揉み手でもしかねない勢いで、真里はテーブルの上のメニューを覗き込み、優子はカウンターの後ろの〈本日のおすすめ〉が書かれた黒板を見やる。
 真里が、牛タンのネギ焼きと揚げ出し豆腐、優子が、イカ焼き、イカ刺しと納豆の和え物、イカの沖漬を注文して、ほどなくビールとお通し(ユッケ風牛肉のタタキ)が運ばれてきた時、ガラガラと扉を開けて、暑苦しいダークグレーの背広を着込み仕事用の鞄を抱えた荒川が駆け込んできて、店内をきょろきょろと見回すと、それに気づいた真里が手を挙げて、こっちこっち、と無言で呼びかけ、その手を挙げたまま店主に、すいませんビールもう一つ、と追加の注文をする。
 走ってきたらしく、額に汗を浮かべている荒川がようやく腰を落ち着けたところで、真里がおしぼりを手渡してやり、暑苦しい背広を着たままなのを見かねて、優子が、暑苦しいから上着脱げば? と言うと、それもそうですね、と答えて上着を脱ぎ、ついでにワイシャツの袖もめくりあげ、ネクタイを緩めながら、荒川は、眼鏡の奥の目を細めながら黒板をにらんで、串ひととおりと、牛のレバー刺を注文し、真里にとも優子にともなく、ここのレバーは美味しいんですよ、と言いながらおしぼりで額の汗を拭く。

 ジョッキで乾杯し、運ばれてきた料理に箸を付けながら、優子は、このあいだの休日は真里にふられたから、一人で映画を見に行った、と話しはじめた。
「さびしー」
「さびしくなんかないもん」
 と言って、えーん、と泣き真似をする優子に、荒川が、何を観たんですか、と尋ね、そこから映画の話になるかと思いきや、何故か、話は仕事方面へとずれていく。優子が、ヌーヴェルヴァーグ、ウチの雑誌で特集したら? 荒川君。フランス映画をおしゃれ視点で見てみよう、とかさー、と提案すると、荒川は途端に不愉快そうな表情になり、ヌーヴェルヴァーグはそんなもんじゃないっすよ、と映画青年くずれ風の青臭い口調になるのだった。
「シャレが利かないのね」
「若いのに頭が固いよね」
「21歳に言われたくないよ。いや、そもそもヌーヴェルヴァーグというのはですよ、」
 と大演説をぶちそうになる荒川に、ストップ、みなまで言うな、と優子が制止をかけるが、そうすると会話が続かないのだった。

 いかにも話題の乏しい職場の飲み会みたいでイヤやな、と思いながら優子が、荒川君最近どうよ仕事のほうは、と聞きたくもないことを聞くと、荒川もお定まりのパターンで、はあ、まあ、ぼちぼちってとこですか、と答える。会話にならへん。荒川が急に深刻そうな顔をして、向いてないんすかね、女性誌、と言い出すので、カチンと来て、あー向いてないね、はっきり言って向いてないね、早く別の道、やりたいことを見つけたほうが自分のためとちゃうん? と普段から思っていたことを遠慮なく言いはじめると、真里は、あちゃー、という声が聞えそうな困った顔をするし、荒川はしょげかえって下を向いてしまう。
「やりたいことですか……優子さんのやりたいことってなんですか」
「わたし? わたしは、そうねえ、毎日楽しければ、それでええんちゃう?」
 急な質問を適当にはぐらかしながら内心冷や汗をかく。これ以上はかなわんなあ。面倒くさい。しかし、優子の心配は、杞憂だったようで、優子に指摘された問題点について真剣に考え込んでしまったらしい荒川が、ますます陰気に俯いてしまうのをみて、真里と優子は顔を見合わせ、無言でため息を吐く。
 一緒に暗くなっていてもつまらないと思ったのか、場を盛り上げようとする本能なのか、真里が、大きな声で、今日の取材先であったエピソードを話しはじめる。なっつぁんがさぁ、すごいんだって。おっかしいんだってぇ。夏木さんが笑顔と持ちまえの〈ボケキャラ〉でいかに巧みに取材相手の気持ちを和ませるか、という真里の話を聞きながら、優子はつい、ええよなあ、笑顔が可愛い子は、とババくさいことを言ってしまい、言いながら反省する。〈ゆーちゃん〉だって、ほら、大人のお色気で。ね、荒川さん。急に話を振られた荒川が、え、ああ、はあ、と気の抜けた返事をするので、優子が、そりゃあ、お色気はありあまってるけど、取材相手に、お色気戦法で迫って、妙な誤解でもされたらかなわんし、とおどけてみせても、場の白けた空気を立て直すのは難しいのだった。

 〈ゆーちゃん〉、お母さんからの手紙読んだ? と突然、真里が話題を変えた。その話題はムリやろ、と焦りながら、まだ、と、いかにも気のない返事を、つまらなさそうに、興味なさそうに、その話題には触れないで、という思いもあらわな口調で返したというのに、真里がしぶとく、えー、まだ読んでないんだ。いい加減読んであげないと悪いよ、と食い下がるので、ついに、荒川までが顔を上げて興味津々という表情を優子と真里に向けるのだった。
 〈ゆーちゃん〉ったらさあ、と前置きして、真里が荒川に話しはじめる。急にまとまった休みが取れることになり、しばらく母親の顔も見ていないことだし、ここは一つ親孝行をしようと思い立ち、母親に電話をして、海に行こう、海の見える温泉で親子水入らずでのんびり過ごそう、と誘ったのだが、思いもかけないことに母親が、その日は用事があるから行けない、とつれなく答えたので、つい喧嘩になってしまい、その後しばらくして、母親から手紙が来たのだが、その時は腹が立っているので読む気がせず、何日か放っておくうちに、次第に読むのが億劫になって、何日もその手紙が玄関先の下駄箱の上に置いたままになっているのだ、という話を、真里はさも楽しそうに、優子の顔色をちらちらとうかがいながら、荒川に語って聞かせた。
 恥ずかしさに真っ赤になった優子の顔を見て荒川が楽しそうに笑っているので、真里はさらに調子に乗る。
「手紙は読まない、電話も出ない、ってどうなのよ。大の大人として? ってか、人として?」
「わかってるから! 読むから!」
「いつ?」
「そのうち。って、何でオレが〈やぐち〉に責められなきゃなんねーんだよっ」
 と言って、優子が真里の首を締める真似をする。
「ゆーこのバーカバーカ! ぐ、ぐるぢい」
 荒川が不審そうな顔をして、真里と優子の顔を見比べ、何か聞きたそうにしている。それが気になって、真里の首を締めるのをやめると、
「〈やぐち〉って呼んでるんですか、真里ちゃんのこと?」
 と、荒川が不審がるので、優子は、しまった、うっかり人前で〈やぐち〉と呼んでしまった、と後悔したが、遅かった。
「あ。真里だから?」
 会社に入ってきた当初、「沼ちゃん」とか「ぬまっち」とか呼ばれていた大沼真理は、ヌマという音が気に入らない──だって、やぼったいしさー、なんかヌメヌメしてる感じじゃん?──らしく、しばらくすると、わたしのこと〈まりっぺ〉って呼んでください、と言いだし、それ以来会社では〈まりっぺ〉が彼女の通称として定着していたのだが、ある時、企画の案を練っていた優子が紙の上にメモした〈知的センスをさり気なくアピールするためのマストアイテム〉という文字を、真里が覗き込んで、矢口的センス? と読み間違えたので、優子は、それって例えば上げ底スニーカーとか? と言って爆笑し、それ以来真里の顔を見ると、ことあるごとに、いやー、さすがに真里は矢口的センスがあるよねー、と、からかい続け、そのうちいつの間にか、優子は真里のことを〈やぐち〉と──さすがにちょっと恥ずかしいので、二人きりの時に限ってだけれど──呼ぶようになっていた。
「だから、おいらは逆に田澤先輩のことを〈ゆーちゃん〉って呼ぶことにしたわけ」
 荒川は妙に照れ臭そうに頬を赤らめている。そんな〈ヲタヲタしい〉あだ名でお互いに呼び合っていることが知られてしまった優子も、アルコールとは別の理由で頬が火照ってくる。あー、めっちゃヤバい。恥ずかしいで、これ。
「歳も、ちょうど十歳離れてたしねー」
「そこはあんまり強調しなくていいからね、歳のことは。お姉さん、傷つきやすい微妙なお年頃やからね」
 照れ臭いのを誤魔化すように、優子はイカを食べ、ジョッキをあおった。
「大将、ジョッキ…三つ? 三つおかわり!」

 照れくさくてかなわんなぁ、と困り果てているうち、ふと今朝のことを思い出し、そう言えばまだこのことを〈やぐち〉に喋ってなかった、と思って、もっと恥ずかしい話題でその場をしのぐことにする。
「ちょっと聞いて聞いて!」
「なんだよ、バカゆーこ」
「今朝、山の手線でさあ」
「いい男でもいた?」
 今朝見た例の痴漢の一部始終を話してきかせると、真里ばかりか荒川までも目を輝かせて聞き入った。
「で、わたしがさ、ちょっと何してるん、言うて、痴漢の手を取り押さえようとしたらさー、たくましい男の人が、一瞬早くその痴漢の手をねじり上げていたわけ」
「ほうほう」
「超カッコ良かったー」
「惚れた?」
「惚れたね。あれはグッと来た…って、話じゃなくてさ、その痴漢と女子高生を、駅員さんのところに引っ張っていった訳よ」
「ふんふん」
「で、駅員さんが問いただすでしょう、あなた痴漢していたんですね、って」
「うん」
「ところが様子がおかしいのよ」
 駅員がその男を問い詰めていると、女子高生が、その男の隣で困ったような顔をしながら、あの、この人痴漢じゃないんです、と言い出したのだった。
「もしや痴漢プレイ?」
「そう! 満員電車の中でお楽しみだったわけよ」
「きゃあ、やらしいー。マジで? やばくない? それ」
「ぶっちゃけありえないよね」
 真里が顔を真っ赤にして喜んでいる横で、荒川はバツが悪そうな顔をして黙っている。
「いやー、密かな楽しみに水を差しちゃって悪かったかなー、と」
「いやいやいやいや。悪かったとか、そういう次元の話じゃないから。犯罪だから、犯罪」
「あれさあ、見つかったほうも恥ずかしいと思うけどさあ」
「見つけたほうもメチャメチャ恥ずかしいよねー」
「もう、メッチャ恥ずかしかった」
 思わず、痴漢を捕らえた屈強な紳士と目があうと、その人もまたバツが悪そうな微妙な表情をしているのだった。変わった趣味の人もいるものですね。本当ですよね、あー、びっくり。じゃあ、僕はこれで、お疲れ様でした。そう苦笑混じりに言い残し。急ぎ足で次の電車を待つ乗り口へと向かう彼のたくましい背中。
「いやー、おいらも昔電車で痴漢にあってさー、それから電車恐怖症だもん、だから自転車通勤だし」
 それ以来、電車に乗ると吐き気、胸やけ、頭痛に襲われるのでなるべく乗らないようにしている、という何度か聴いたことのある話の後、真里がいつもの、痴漢は人類の敵! 男はみんな潜在的痴漢予備軍! 満員電車に乗る男はみんな痴漢未遂罪で逮捕されればいいんだわ! という主張を声高に言い募ると、暗く俯きながら聞いていた荒川が顔を上げ、
「ぼく、いつも間違われやしないかと、ひやひやしてますよ。痴漢に間違われて警察にしょっぴかれて、裁判にでもなったら人生終りですから。冤罪だって認められても、世間は……」
 と深刻そうに語るので、またしても場は一気に醒めるのだ。

 いやあ、それにしても、ええ男やったなー。まさに紳士。かっこよかったんだ? もうもうもう。頼もしくて。何があっても守ってくれそうやん。お父さんって感じ? と、痴漢を捕らえた男性の話題で優子と真里が盛り上がっていると、荒川が俄然活気づき、27歳くらいの編集者なんてどうですかね? と、テーブルの上に身を乗り出して質問する。
「へ? 27歳の? 編集者?」
「はい」
 優子は、初めて見るような気持ちで、荒川を見つめた。
「汗でぐっしょりのワイシャツを着た?」
 荒川が慌てて自分のワイシャツに目を落す。
「……ええ」
「いつ流行ったんや、って感じのテクノカットの? 刈り上げの?」
「……はい」
「テーブルに身を乗り出してて、ネクタイの先がお醤油の皿に浸りそうになっている?」
 荒川はネクタイの先をワイシャツの中につっこみながら真剣な口調で訊いた。
「目はありますか?」
「ないね。だってぇ! わたし、一目惚れしか信じないもの」
 がっくりと肩を落した荒川に、真里が、元気だしなよ、さ、飲も! と声を掛ける。あれ、荒川君って真里に気があったんじゃないの。ひょっとして違ったん。不審に思いながら、そのことには気づかないフリで、優子は気合いを入れ直し、手羽先の甘辛煮と生ビールを三つ注文した。

 まず運ばれてきたビールのうちの一つを、まだ半分以上中身の残った中ジョッキを飲み干せずにいる荒川の前に、どん、と置き、がんがん飲みや、と言うと、荒川は少し困った顔で優子を見た。
「なんだよ。オレの酒が飲めないってか?」
「あー、ついに〈ゆーちゃん〉の〈オレ〉が出ちゃったよ。ってか、〈ゆーちゃん〉、それアルハラだから」
「アルハラって何?」
 荒川が、いつもの生意気な口調で、つまりですね、アルコールの摂取を強要することによる嫌がらせをですね、アルコール・ハラスメント略してアルハラと言いまして、と得意げに説明するのをさえぎって、
「ほほう。先輩が、しかもこんな美人がせっかく勧めてあげてるのに、言うに事欠いてアルハラか。ほおおおお、そういう……」
「ぼ、僕は言ってないですよ」
「往生際が悪いよ、荒川さん」
「その通りやで、アラカワク……」
 普段通り「荒川君」と呼びそうになったのを途中で思いなおして呼び捨てにしておこうと思ったのだが、意図に反しておかしなところで途切れてしまう。
「荒川区? あ。いいね、その呼び方」
「じゃあ今から荒川君のあだ名は〈あらかわく〉ってことで」
「決まり決まり」
「き、決まったんですか」
「全員一致で大決定」
「いや、全員一致も何も、僕は……なに二人でハモってるんですか」
「ミラコー」
「いやいや。曲名を訊いているわけでは」
「あ。ミラコーで分かるんや」
「いやその」
「ほほお」
「ははーん、さては、そういうことか」
「ねえねえ、〈あらかわく〉は誰が好きなん? メンバーの中で」
 首元まで赤くなった荒川はもごもごと口ごもった。
「いやその、そういうことは、優子さんの前では、ちょっと」
「なによぉ、言えないの、恥ずかしくて?」
 真里がポーチからケータイを取り出して、連絡先編集画面を開き、荒川の名前を入力しなおす。
「えーと〈あらかわく〉カッコ、モーヲタ、と」
「カッコ内はいらないですから」
「冗談だよ。入れてないから」

 優子の頼んだ手羽先の甘辛煮、真里の頼んだ「世界のチーズ盛り合わせ」と一緒に、頼んだ覚えのない小さめの器が運ばれてきて、見てみると、イカの肝が二杯分、一口大に切られて並んでいる。あれ。頼んでないですけど、と不審そうな顔を店主に向けると、店主が優子の疑問に先回りして答える。
「それ売り物じゃねーんだけどさ。綺麗なお嬢さんにだけ特別大サービス。イカ、好きみたいだし」
「まっ、大将ったら。料理も美味いけど、口も上手いのね」
 それは、新鮮なイカの肝──もちろん生で食べられる鮮度のもの──だけを塩辛にしたものということで、いかにも美味しそうだった。
「ずるいよ大将。俺たちにもくれよ」
「今日はもう品切れ」
「美人は得だよな」
「美人はイカがお好き」
「それ元ネタが分かりづらいから」
 カウンターに陣取ったサラリーマンたちが口々に不平を言う。
 勇気を出して、優子と真里が同時にそれを箸でつまみ、口に入れる間際、真里が、回って、と言うので、塩辛を一口食べて、二人一緒に上半身を少し後ろに倒して、んんんんー、と声を出しながら上半身を回していると、何故か、荒川までが楽しそうに体を回している。
 口の中に強烈な磯の香が広がり、優子は、冬の日本海の取材で乗ったイカ釣り舟の上で食べたイカの美味しさを思い出した。
「あー、イカ釣りに行きたいなー。船の上で、獲れたてのイカが食べたい」
「じゃあ、釣れた魚は僕が料理しますよ」
「へ。それ、ついてくるって意味?」
「僕、これでも料理は得意なんですよ。いつか田澤先輩に手料理を振舞いたいッス」
 眼鏡の奥の荒川の目が、優子の目をまっすぐ見つめている。あれ。ますます怪しい。

 荒川の視線から目を逸らし、そうねえ、機会があればみんなで一緒に行きたいわね、と真里に話しかけながら、ポーチの中からケータイを取り出し、付属のデジタルカメラで撮影した画像を真里に見せた。
「なにこれ。あ。洗面所か」
 そう言って真里は、小さな画面に映し出された、白で統一された洗面台と、そこに置いた青い椅子を覗き込んでいる。
「こないだ映画の後、代官山を歩いてたら、通りがかったお店で、その椅子を見つけたわけよ。もうそれこそ一目惚れで。お店の人に、在庫ありますかって訊いたら、ある、って。それで即決」
「この青、キレイだね」
「でしょー。ウチの白い洗面所に色がないからさ、この青を置いたらいいかなー、って」
「〈ゆーちゃん〉、洗面所にいる時間長いしね、二時間? 三時間?」
 そう言いながら、真里は、興味津々の表情で画像を気にしている荒川のほうにケータイの画面を向けた。覗き込んだ荒川は、長いこと小さな画面を喰い入るような目で見つめ、それから、優子さんって、素敵な部屋に住んでいるんですね、と、夢見る乙女かという調子で呟き、さらに、洗面台の前に掛けてあるヒョウ柄のフェイスタオルに目をつけ、優子の着ているベアトップと見比べながら、優子さん、ヒョウ柄が好きなんだ、意外だな、と、蕩けそうな口調で続けた。
 なに? なんなん? 唖然として、優子が真里の顔を睨むと、真里が楽しそうに優子を見てニヤニヤしているので、ごめん、わたしちょっとお化粧直してくるわ、と言って立ち上がり、立ち上がりながら、目は真里に向けたまま、あごを5ミリほどしゃくりあげると、それに気づいた真里も、あ、わたしもトイレ、トイレ、と──優子がお化粧直しと遠まわしに言ったのを台なしにしながら──席を立つ。

「どういうことなのよ」
「優子さんを誘ってくれ誘ってくれってしつこく頼まれちゃって」
「〈やぐち〉に気があるんじゃなかったの」
「それが違うの」
「じゃあ、つまりなに? 今日は荒川とわたしのお見合いか?」
「えへへ。恋のキューピッドしてみました」
 お手洗いの鏡の前で、優子は額に手を当てて天を仰いだ。
「ちょっとお。先に言ってよ。聞いてないから」
「だって言ったら、〈ゆーちゃん〉来てくれないでしょ、誘っても」
「来ない。くそ、騙された」
「ごめん、〈ゆーちゃん〉、そういうことだから」
 と、真里が鏡の中の優子に手を合わせて拝む真似をするが、牛模様と緑色の爪のふざけた取り合わせに、ちょっとムカツク。
「あーっ、まずいまずい。テンション上がってきたよ。どないしよ」
「頑張って」
「頑張るも何も。とりあえず飲めるだけ飲んでぇ、食べるだけ食べてぇ」
「あー。やる気なしなんだ。最初から」
「ないない。そんなもの」

 上司命令の名を借りた「アルハラ」によって、残ったビールを一気に飲み干した〈あらかわく〉の前に、新しいジョッキが置かれる。
「じゃあ、新しいあだ名を祝って、乾杯!」
「どうなっても知らないですよ」
 覚悟を決めた表情で、荒川がビールをあおるが、その割にいくら飲んでも荒川は顔色を変えなかった。結構強いのかも。
「どうかなるん?」
「一定の摂取量を越えると、変身するんですよ、狼に」
 〈あらかわく〉が冗談っぽく不敵な笑みを顔──地味な顔だちと思って気にかけたこともなかったが、すっきりとした二枚目と言えば言えないこともない──に浮かべた。
「きゃあ。恐いわぁ」
「ホテルに連れ込まれちゃうとか。あはは」
「なに? もしや、お持ち帰り? いやぁん」
 と、優子と真里は大袈裟に恐がるフリをして抱きつきあい、悪戯っぽい視線を荒川に投げる。
「馬鹿にしてます? 本当に狼になりますよ、僕は」
「あらいやだ。そんな勇気のある男も今日びなかなかおらんけど」
「そうなんです。僕、オトコギがあるんですよ」
「いやいや。言葉の意味間違ってるから。ってかさあ、お酒の力を借りてる時点で、すでに勇気もヘッタクレもなにもないけどな」
 大袈裟に肩を落した〈あらかわく〉を〈やぐち〉が慰める。
「なあに凹んじゃって。さあ、飲んで飲んで。〈アラカワク〉!」
 荒川は、白い泡が今にもこぼれそうな、なみなみと注がれたビールジョッキを、口に持っていき、ゆっくりと傾け始め、喉仏を微かに振るわせながら、一定のペースでジョッキを傾け続け、何事もなかったように中ジョッキを飲み干すと、旨い、と呟き、店主にお代わりを注文した。

 河岸を変えて、お洒落なカクテルバーでカクテル──優子と真里はフレッシュジュースを使った軽いカクテルを一杯づつ、荒川はドライマティーニばかり三杯──を楽しんだ後、次に行こう、カラオケ歌おう、と盛り上がる真里と荒川に、酔ったから帰る、と告げて、目をキラキラさせながら、送っていきます、という荒川の申し出を、結構です、とあっさり断わって、優子は二人と別れた。

 タクシーを拾って、運転手に行き先を告げる。目を閉じ、息を整える。少し飲み過ぎた。楽しすぎるから。明日の仕事は。アルコール漬けになった脳細胞が質問の答えを探しだせず、ぐるぐると同じ言葉が言語中枢のはずれを行ったり来たりする。ゴクゴクとビールを飲み干す荒川の喉仏の動き。あれ。何を考えてたんやっけ。何が気になっていたのかを思い出そうとしていると、ポーチの中のケータイが電子音で『DO MY BEST』を鳴らすので、ポーチの中を引っ掻き回してケータイを取り出すと、〈やぐち〉からのメールだった。
『ゆーちゃんもすみにおけないね。このこの』
 何度も打ち間違えて──キーを押しすぎて、目的の文字を通りすぎてしまう、ということの繰り返し──、その度に、ち、と舌打ちをしながら、なんとか短いメールを打ち終えて返信する。
『すっかりはめられた。ぷんすか』
『荒川区がゆうちゃんのメアド教えろ、ってうるさい』
『自分できけ』
『テレくさいんだってさ』
『ヘタレやな。別に教えてもいいけど』
『いいんだ。マジすか。さてはゆーちゃんもまんざらでは?』
『ちがーう。別に断わる理由もないし』
『了解。じゃ、これから教えちゃうぞ。本当にいいんだな。じゃーね』
『おう』
 〈あらかわく〉か。どう考えても頼りない。結婚の対象? 無理。この年になると、結婚に直結しない恋愛は無駄な遠まわりのような気がしてくるのよね。

5.

 優子さん、坂本一亀を御存知ですか、名編集者で、俺の目標なんです、俺も日本の言論界を動かすような仕事がしたい、「上」に掛け合って、文芸部を立ち上げたい、無理なら、他社の文芸部に移ってでも、という話を、同じ言葉を何度も繰り返しながら回りくどく喋る〈あらかわく〉は、酒に酔っているわけではなく、自分の夢というか、熱情に酔い痴れているらしく、優子はその声を片耳で聞き、うんうん、と相槌を打ちながら、屋台の熱いラーメンを、ブラウスにはねないように気をつけながら──後ろを長く伸ばした髪が垂れ下がってこないように、ゴム紐で金色の髪を後ろに束ねて──静かに啜っていた。
「優子さん聞いてます?」
「うん聞いてる。大将、この辛味噌ラーメン美味しい」
「ありがとうございます」
 屋台の亭主は優子と目をあわせて嬉しそうに笑い、すぐに目を伏せて、また、どんぶりを洗ったり、大鍋の中のスープの様子を見たりと、忙しそうにしている。
 ラーメンを六割がた食べたところでお腹のほうは満ち足りてきたけれど、何か物足りなくて、ビール貰おうか、と荒川に誘いかけると荒川は即座に、オヤジさん、ビール頂戴、と注文する。
「あいよ。餃子も食べるかい。うちのは旨いよ。なにせ皮から手作りだからさ」
 と、商売熱心なところを見せる店主に、じゃあそれも頂戴、と答えながら、汗ばんできたのでハーフコートを脱いでたたみ、カウンターの下の狭い棚にそっと置いてスーツ姿──お固い取材先を訪問するとき用のお気に入りで、膝丈のスカートのうしろ側に深いスリットが入っている──になると、汗がにじむおでこにハンカチを当てながら、そっと荒川の横顔を覗き込む。夢か。ええなあ夢があって。
「履くだけで女性の敵セルライトを除去する脚痩せストッキングとか、むくみを防止するメディキュットとか、もう飽き飽きですよ。とにかく俺、大きな仕事をしてみせますから。ねえ、優子さん、本当に聞いてます?」
 パイン豆乳とかな。携わっている雑誌を否定しかねない暴言には慣れたし、そういう青臭さも嫌いじゃないし、一々カチンと来て反論するのも面倒。大きな仕事。あれ何ナスやったやろ。ボケナス。ハンカチを持ったままの右手を口に当ててくすくすと笑い出し──ついでに鼻の下の汗を拭い──ながら、不思議そうに優子の顔を見ている〈あらかわく〉に尋ねる。
「あれ、何ナスやったっけ」
「レヴィナスですか」
「そうそう。覚えてる?」
 荒川が移動してきて早々、初の編集会議に荒川が出した企画が「レヴィナスと女性 フェミニズムの超克(エッセイ+学者を招いての座談会?)」というもので、谷川副編集長が、女性誌でフェミニズム批判? とあきれ顔をし、橋本編集長が、大変興味深い問題ではあるけれど、うちは『現代思想』でも『ユリイカ』でもないからねえ、と呟くのをものともせず、荒川が、いや、うちの読者である三十代の働く女性たち、男社会の中で頑張る女性たちにこそ、もう一度この問題を見つめ直してほしい、と顔を赤くしながら主張しはじめた時に、優子が一言、レヴィナスだかボケナスだか知らんけど、空気読みや、と言った途端、編集部の部屋全体が静まり返って、その一言で話にはケリがつき、それ以来部内でフェミニズムという言葉は禁句となったのだし、荒川には変わり者のレッテルが貼られたのだった。
「覚えてますよ。忘れてください。恥ずかしいから。それより、俺の話聞いてないでしょ」
「だから聞いてるてぇ。でどうなの。なれそうなんか、その、坂本なんたらには」
「一亀です。いや、遠い目標ですから。でもいつかはなってみせます」
「ええよなあ、男の人は大きな夢を追いかけられて」
「いや、男とか女とかいう問題じゃないですよ。優子さんにだって、あるでしょう、目標とか、夢とか」
 前にも似た質問をされたような。気の滅入る質問。夢か。夢ね。
 店主が差し出した熱い餃子を食べ、ビールを飲みながら、涼しげな顔に暑苦しい表情を浮かべた荒川の横顔をちらっと見て、そして目をそらす。
「この餃子も美味しい」
「旨いっしょ。手ぇ掛けてるからさぁ」
 自慢げな店主に向かって頷き、上あごを火傷しそうになりながら餃子を食べて、ガラスコップ──長年使い込んだものらしく、サッポロビールのマークの印刷がほとんど消えかけている──で、ビールを飲む。
 夢。夢か。正直、夢を思い描いたり、未来の目標を立てたりするのは苦手で、毎日、目の前の仕事を手を抜かず頑張ってはいるつもりだけれど、改まって、大きな目標は、と訊かれても言葉に詰まる。
「夢か」
「幸せになること、ってのはNGワードですからね」
 あ。その手があった。
「それ、今言おうと思ったのに。それそれ。それに尽きるやん」
「誰だってそうですよ。もっと具体的に」

 真里。彼女なら。数年前、まだ高校生だった彼女が編集アシスタント見習いのようなアルバイトとして社に出入りしはじめた頃から、真里は男性社員の人気の的だったばかりか女性社員たちからも妹のように可愛がられていたのだが、高校を出て美術系の大学で写真を専攻しはじめるとすぐに割と大きな展覧会に入選も果たし、雑誌でカメラマンとしての仕事もはじめ、どこからみても将来を嘱望される若者で、とりあえずは大学で美術を極めるのかと思っていたら、あっさり中退してそのままごく自然にうちの社員になっていた時には驚いたものだった。今は、正式には二十代向けのファッション誌に配属されていて、カメラマンもやり記事も書くという活躍ぶりなのだが、なおかつ未だに全社員のマスコットでもありつづけている。そう、彼女なら。彼女はきっと、そう長くうちの社にいることはないだろう。そんな気がする。うちの社に入ったときと同様に、ごく自然に、もっと大きな舞台で仕事が出来る人間になるだろうし、そうなった時でも、きっと、あの人懐っこい笑顔も、可愛い性格もそのままで、活き活きと仕事し続けるはず。笑いの絶えない生活。
 それに谷川副編集長なら。仕事を続けながら、三人の息子を立派に育て上げて。彼女がこの先どういう道を目指しているのか、分からないけれど、出世を目指すにせよ、何か別の仕事を成し遂げようとしているにせよ、彼女なら自分らしさを貫きながら、どんなことでもやり遂げてみせるだろう。
 じゃあ自分は。何がしたい。夢は。目標は。仕事。恋。結婚。真里や谷川さんへの憧れはある。でも、真里にはなれっこないし、谷川さんを目指すがらでもない。ヘタレやしなぁ、自分。
 屋台の店主が、カウンターのうえに、ビールのコップとは別のコップを二つ置き、一升瓶の栓を開けて、日本酒を注いだ。
「お嬢さん、美人だから特別サービス」
「まっ、大将ったら。ラーメンも旨いけど、口も上手いのね」
「行けるクチみたいだしさぁ。あはは。隣の兄ちゃんには、オマケでサービスしとくから」
「そりゃどうも」
 では、ありがたく、とコップをかざして、口に近づけると、果物のような香りがして、香りのよさに驚きながら一口含むと、豊かな旨味が口の中で膨らみ、それからさらさらと喉を滑り落ちたが、口の中にはいつまでも余韻が残った。初めて飲む味に感動して、お酒の銘柄を尋ねると、店主はまるで愛娘の器量を褒められた父親のように相好を崩しながら、瓶のラベルを見せてくれた。
 柳のように柔らかな草書体で『純米大吟醸 女盛』と書かれている。おんなざかり、か。
「お嬢さんみたいな人のことを言うね」
「またぁ。うまいなー、自分」
 ラベルの横のほうに、小さく「杜氏 山脇ちづる」と書かれている。
「あら。杜氏さん、女の人なん」
「おん歳、三十一歳といったかな、たしか」
「嘘ぉ。同い歳やわぁ」
 興味を持って、ラベルを読むと、日本酒度、アルコール度数の表示のあとに、「寺尾酒造株式会社京都府福知山市字堺□□番地」と書かれている。
「あれ、しかも同郷やわ」
 店主が驚いて、お嬢さん、大阪出身だとばかり思った、というので、福知山の高校を出て、大阪に就職し、二十四で東京に出てきた、と説明すると、納得したように頷いた。どうりで。
 優子さんの生まれ故郷のお酒だと思うとますます美味しいです、と皮膚が痒くなるようなことをいう荒川に、バーカ、と言いながら、もうひとくち口に含む。美味しい。自分と同い年の女性が作ったお酒。しかも、故郷のお酒がこんなに美味しいなんて。なんか嬉しい。奇遇。そう。わたしも。わたしだって。
「わたし、三十代の女性を勇気づけるような仕事がしたい。仕事の中で頑張っている女性たちの取材を通じて。ゆくゆくはそういう本を作ったり、とか」
 荒川の顔がぱっと明るくなる。
「それ、いいじゃないですか。そうだ、この杜氏さんを取材するのもいいんじゃないですか」
 そう。それだ。新しい仕事を自分の故郷から始めるのは、いい考えかも。
「あー。なんか、夢が広がる気がする」
「そう、その意気ですよ。元気出していきましょう」
「あら。わたしはいつでも元気だけど」
 荒川が眉を顰めた。
「あれ。そうでもなかった?」
「俺のことを『空気読みや』って、怒鳴り飛ばしてくれたときの優子さんは、もっとはっちゃけてて、その、何ていうか、輝いてたような」
 その頃を思い返してみる。いつやっけ、〈あらかわく〉が異動してきたの。そして、その頃はまだ、〈あのばか〉との恋が続いていたのだった。そのせいで輝いていたのかもしれない。恋をしていると仕事にも燃えるタチやし。

 ご馳走様を言って、お代を払い──僕が払います、と生意気をいう荒川を押し止めて割勘にし──暖簾をくぐって、歩き出す。ここから、優子の住むマンションまで直線距離で十分たらずなのだが、少し遠まわりして、緑の多い公園──もうイチョウの葉は黄色く色づいている──の中を通って帰るのが、最近のお気に入りのコースだった。
 荒川は、一緒に退社できる日はわざわざ自分の街から遠い駅で電車を降りて優子をマンションの前まで送るのだったけれど、優子は友人であれ誰であれ、他人を自分の部屋に招きいれることが苦手なので、まだ一度も荒川を部屋にあげたことはなかった。
 ラーメンとお酒ですっかり体が温まっていたので、ハーフコートを脇に抱えて、上下揃いのスーツ姿──密かに谷川さんのファッションを手本にしていて、彼女は仕立てのいい黒(時にはクリーム色)のスーツに襟元に落着いた色柄のスカーフを合わせていて、いかにも仕事が出来そうなうえに上品で「フェミニン」な印象なのだが、優子が真似てみるとどうも彼女の上品さとは異質な感じが漂うのは、スーツが既製品だからでも、ヤングミセスというかハイミスというかようするにオバサン臭くなるのを嫌ってスカーフを省略しているからでもなく、おそらく髪の毛の色が淡いハチミツ色(つまりは金髪)であるせいだとは思うのだが、〈やぐち〉に言わせると、顔立ちが違うからじゃない? ということになり、それは否定はしないけれど、殴ってやりたくもなる──のまま歩いていたが、数分歩くと、さすがに秋の夜風で体が冷えそうになり、急いでコートを羽織った。肩を抱くわけでも手を握るわけでもなく、微妙な距離を保ちながらすぐ横を歩いている〈あらかわく〉は、屋台にいたときからスーツの上に皮のジャンパーを着たままだった。ジャンパーは長く愛用したものらしく、古びて色あせているのだが、スーツの上に着ているので、やんちゃな古着ファッションなのだか、ただ貧乏臭いボロなのか、判定に悩む。
「わたし、そんなに輝いてたん」
 優子は、荒川のほうを見ず、独り言のように呟いた。恋をすると女はキレイになると言うし。
「はい。俺、その時から」
 途中で声を詰まらせた〈あらかわく〉の言葉の続きを聞こうとして、彼のほうを振り向こうとした時、優子の肩に荒川の手が掛り、ちょっと痛い程の力で肩を引き寄せられ、驚いて顔を見上げると、荒川の視線がまっすぐに優子の目を見つめているので、彼の手の熱っぽさから緊張が伝わってきて伝染するように心臓の鼓動が高鳴った。
 荒川が少し傾けた顔をゆっくりと近づけてきたとき、来た来たついに来た、というしょうもない感想が頭の中に浮ぶのだが、それなのに、まるで小娘のように動揺している自分が逆に新鮮というか、久しぶりの感覚だった。
 荒川の顔が上手く焦点が合わない至近距離にまで近づき、彼の唇から漏れる微かな息が唇にかかり、緊張で乾いた唇同士が触れそうになる瞬間、不覚にも涙が込み上げてきて、そのことに自分で驚いて、とっさに顔を背けてしまう。優子の目尻に光るものを見つけた荒川が、焦って、もごもごと聞き取りづらい声で、謝罪しようとするので、謝るくらいなら最初からキスなんてすんなや、と〈切れキャラ〉になるのも、いいの、ちょっと驚いちゃっただけ、とカマトトぶるのもどちらも違う気がして上手く言葉が出てこないし、だいたいそれがどういう涙なのか、自分でもよく分からない。久しぶりのキスに、うろたえたのか、嬉しかったのか、懐かしかったのか。懐かしいだなんて。オバハンか。
 初めてのキスがギョウザの匂いだなんてイヤやんか、と冗談を言ったつもりが、声がかすれてしまって、笑いも中途半端でひきつってしまうし、おまけに、緊張しているのがミエミエだったし、それよりなにより、こんなこと言っちゃったらまるでキスを許したも同然じゃないの、迂闊だったわ、と後悔するものの、言ってしまった言葉をもう一度口の中に戻す訳にもいかない。
 僕も同じものを食べたから同じ匂いですよ、という荒川らしい答のズレっぷりが妙に楽しくて、あはは、と小さな笑い声を上げたのだが、同時に再び荒川の手が肩を引き寄せる。今度はかわせないか。今度こそ。
 再び目尻に涙が溢れそうになるのを堪えながら、荒川の顔が近づいてくるのを見つめていると、不意に荒川の手から力が抜け、両肩から彼の手の温もりも重さも伝わってくる緊張も、離れていってしまう。
「泣いてる。もしかして、怒ってるんですか」
 そうじゃない、そうじゃないよ、ああ、一体自分どういう顔してたんやろ、どんなこわい表情で荒川のことを睨んだというの、マスカラが流れて怪物みたいな目元になってたとか、あー、最悪やんそれ。
 再び荒川が謝りの言葉を口にしたところで、自分でも制御不能な〈切れキャラ〉が発動してしまう。
「謝るくらいなら最初からすな! って、別に怒ってないんやけどっ」
「けど?」
 理由なんか自分でも分からないし、たとえ分かったとしてもそんな理由はきっと恥ずかしくて口に出せない種類の理由に違いないから、分かったとしても荒川に教える訳がないのだが、そもそも彼を前にして泣いている、という事実からして恥ずかしくてたまらない。不安そうな荒川の顔を見ているうちに涙が次々と湧いてきて、目尻から流れ出す。本格的にマスカラがやばい。こんな顔見せられへん。ハンカチを取り出して、目元を押さえながら、
「もう家近いから。一人で帰れるから」
 そう言い捨てて、荒川を残し、立ち去ろうとする。
「優子さん! 僕のこと、キライですか?」
 そうじゃない。嫌いじゃない。むしろ初めて見た時からいい男だと思っていたような気すらしてくるほど。しかし、口を突いて出た言葉は、まったく別の言葉だった。
 ほら、荒川君だって、わたしのこと「さん」づけで呼ぶでしょう。田澤先輩とか。私だって、あなたのこと、後輩としか思えへん。
 踵を返して、早足でマンションへと向かいながら、荒川を振返りはしなかったし、追いかけてくる者も、いなかった。意気地なし。

6.

 その朝、優子が妙に気がかりな夢から目を覚ますと、自分がベッドの上で一頭の立派なシベリアンハスキーに変わっていたりするわけも、もちろんないのだけれど、ジリジリと鳴り続ける目覚まし時計を止めて眠い目をこすりながら、何かがおかしい、何かが足りない、と感じ続け、ふと思い当たったのは、小梅が寝床にいない、ということだった。あれ、小梅、どこで寝てるん、と呟いたのとほぼ同時に、昨夜のうちにペットホテルに預けてきたのだった、と思い出し、ということは今日は出張の日ということで、慌てて時計を見ると既に新幹線の発車時刻まで二時間半を切っている。
 カーテンの隙間から外を覗くと、冬の午前四時では当然真っ暗で、部屋の照明を点けると早朝というより深夜の雰囲気だった。五時に迎えに来てくれるようにタクシー会社に電話をしながらパジャマを脱ぎ、這うようにして洗面台に向かい、お気に入りの青い椅子に座るのももどかしく、顔を洗い、髪を整え、メイクをし──チークとアイカラーと口紅に重ねるリップグロスはとりあえず後回しにして、タクシーの中でやろう──香水を振るのは少し考えて省略する。
 昨夜のうちに揃えて並べておいた服──黒いフェイクレザーのタイトラップドスカートに、コントラストが鮮やかな白のアンゴラの、襟ぐりが大きく開いて鎖骨が出るタートルネックセーターには、胸元に葡萄を象った小さなブローチ(何の記念日でもないのに突然荒川がプレゼントしてくれたもので、葉と房の形をした銀細工の枠に、葡萄の粒を模したガーネットとピンクサファイアを何粒か配している)をつけて、幅広の皮のベルトを腰に引っかけると、ばっちり、という感じだけれど、ストッキングは履くだけでセルライトを退治するスレンダーストッキング(70デニールの強力サポートタイプ!)だったりする──に着替えて、玄関の大きな姿見に映してみて(よし。今日も可愛い)、それからイタリア製の皮のブーツ──7センチのピンヒールがかっこよく、膝下まで丈があって、ふくらはぎにぴったりとしたデザイン(ちょっとでも太るときつい)が脚を綺麗に見せるので特に気に入っている──を履き、ボルドー色から茶色までの中間色が入り交じった綺麗なフェイクファーのハーフコート(しっかりした裏地が暖かいのに、シルエットがすっきりみえるスグレモノ)を着て、モバイルPCとデジタルカメラと少しの書類の入った鞄と、小さなポーチを肩に掛け、もう一度姿見に全身を映して確かめる。おっしゃ。
 その時、下駄箱の上の、いつから置いたままなのか思い出したくもない白い封筒と、小さなガラスコップに入った葉が茶色く変色したプテリス──先月の五日に〈やぐち〉が、会社の同僚としては初めて部屋を訪ねてきてくれて(友達を部屋にあげること自体、超ひさしぶり)、小梅にも、見てごらんー、これが〈やぐち〉だよー、と紹介しもしたし、〈やぐち〉に小梅をだっこしてもらって、可愛い〈二匹のペット〉のツーショット写真も撮ったし、その後、二人でキムチ鍋をつつきながら夜遅くまで〈ダベッた〉のだけれど、その時は、せっかく贈ってくれたプテリスが枯れかけているのを真里に見せるのが忍びなくて、台所の流しの下の引き出しに隠しておいた──が目に入り、出張から戻ったらなんとかしようと思うものの、枯れ果てて茶色く縮こまった葉はさすがに見苦しく、意を決して燃えるゴミのポリ袋を開封しその中に放り込むのだが、雑多なゴミに植物とはいえ生き物の死骸(死骸?)を一緒くたにして捨てることには──真里からのプレゼントでもあるし──胸が痛む。ほんとはちゃんと供養してあげないと。〈やぐち〉ごめんな。
 ゴミ集積所に袋を置き、ちょっと拝む真似をして、マンションの中央玄関に急ぐと、タクシー──暗がりにヘッドライトが二つ光り、車内灯の薄明かりの中で運転手がこちらを向いている──が待っていて優子の姿を見つけてドアを開いたので、慌てて駆け寄り、滑るように乗り込み、早口で行き先を告げた。膝の上に化粧品をひろげ、続きに掛かろうとするが、暗いし揺れるので思うようにチークも塗れず、焦っているうちに品川駅に着いてしまう。駅のトイレに駆け込み、鏡の前で急いでチークを仕上げると、もう新幹線が到着する時間だった。

 ホームに入ってきた新大阪方面に向かう始発に乗りこみ、新幹線のシートに体を落ち着けると、一息つく間もなく再び化粧道具を広げ、アイカラーを塗り、リップグロスを重ねて、ようやく、いつもの田澤優子──慌ただしかったけれど手抜きはしていないから、普段よりハイレベルかも──が完成すると、ほっとして、気が抜けた。京都まで寝ていこうかな。何しろ、まだようやく東の空が白みはじめたばかりなのだ。
 とにかく朝は苦手で──この仕事をしているとどうしても夜型になりがちだし、こんな早起きをするくらいなら、徹夜して起きていようか、と思ってしまうほど──低血圧のせいかどうしても不機嫌になるので、まったく仕事なんてやってられるかよ、と言いたくもなるのだけれど、年末進行で厳しいスケジュールの中に無理矢理押し込んだ出張なので、移動中と言えども時間を粗末には出来ず、一服する間もなくPCの電源を入れ、ライターから電子メールの添付ファイルで送られてきた原稿の校正を始めるのだが、電車の走る単調な音と振動はどうしても眠気を誘うし、仕事もはかどらず、いつのまにか窓の外の景色が流れ去っていくのをぼんやりと見送っている。
 あの時以来、荒川は妙に遠慮がちになって、まったくイライラするのだけれど、だからといって疎遠になるわけでもなく、相変わらず一緒に帰りもすれば、夕食を食べながら雑談に興じもするのだったが、肝心な言葉を口にするのはお互いに避けていて、そのくせ、女もこの年になると結婚に結びつかない恋愛って、億劫というかさぁ、無駄な遠まわりにも思えてくるんだよね、とか、私は頼れる男性がいいの、甘えたいの、姉さん女房なんてイヤなの、と荒川を焚きつけているのだか、牽制しているのだか、自分でもよく分からないようなことを言っていたりもするのは、どうなのよ、と、独り言を声に出しかねない勢いの自分──ひとり暮らしのおばあちゃんかよ。「テレビさん」がお友達。孤独死。うわ、やばいなぁ──にふと気付き、慌ててPCの画面に目を凝らす。
 校正を済ませてメールを送信し、ついでに、いつも原稿が遅くなりがちな別のライターにも、御機嫌伺いとさり気ない催促を兼ねたメールを送ってしまうと、ようやくホッと一息ついて、取材用の資料を広げた。日本酒の醸造過程(特に吟醸酒)、杜氏の年間雇用の問題、自社醸造技術者と杜氏制度の衰退。寺尾酒造の歴史、杜氏さんの経歴。しかし、実際に会って取材してみれば、そこで初めて気付く問題や、思いがけない魅力や、予想もしなかった疑問が次々湧いてくるのが当たり前で、そう思うと、あえて白紙で取材に臨むのもいい、というのが資料を読み返すのをサボる恰好の口実にも思えてきて、また窓の外を眺めた。

 乗換の京都駅で、JR山陰本線の電車を待つ間に、肉まんと缶入りの緑茶を買って、ホームのベンチ──なるべく風が通らない場所を探し──で、朝食がわりに食べていると、ケータイ(待受画面は小梅と〈やぐち〉のツーショット)にメールがきて、画面を見ると〈やぐち〉からだった。
『カエル君。なんだいウシ君。牛って草食なの知ってる?それがどうしたんだい。君って、ブロッコリに似てるね。なんだよそのヨダレは。パク。お前が喰うなよっ。なちっとまりっと!』
 危うくお茶を吹き出しそうになり、アホなもん送ってくんなや、と画面に向かって文句を言い、『ビミョー』と一言メールを返そうと文字を入力しているうちに、続けてもう一通メールが来て、『ゆーちゃん寝坊しなかった?おいら今から北海道だよ。なっつぁんと美味しいもの一杯食べてくるね♪』という文面に、『食べすぎてデブチンになってしまえ!』と返信しながら、真里の細やかな気配りに嬉しくなって、自然と、〈やぐち〉可愛い、と呟いている。
 普段お世話になっているカメラマン達がみんな出払っていたり忙しかったりで都合がつかず、じゃあ真里を、と要望──無理は承知だったけれど、他の雑誌にだって真里と仕事をしたがる編集者は大勢いるし──して、編集長に掛け合って貰ったのだが、真里も予定がびっしりで、結局一人で取材も撮影も、という話になって、それではまるで経営の苦しい編集プロダクションか地方のミニコミかフリーペーパーみたい、と文句を言ったが、副編集長には、まだモノになるかも分からない取材に人も経費も掛けられない、一回目の反響がよければ二回目からは大名出張できるから、と嫌味とも激励ともとれることを言われたのだった。
 福知山に向かう電車に乗り、京都駅を後にする。福知山まで二時間程。お昼前には着く。〈やぐち〉を連れて来たかったな。ちょっとだけサボって、私の生まれた町を案内したかった。こんな小さな町で生まれたんよ、わたし。
 京都市街を抜けると、次第に家並みがまばらになり、田んぼや畑が続き、駅舎は一つ過ぎるごとに寂しくなり、周囲を山々に囲まれた「田舎風景」がゆっくりと通りすぎながら底冷えのする寒々しさを深めていく車窓には、風に乗った粉雪が吹きつけはじめる。

7.

 蔵元という言葉から想像していたのよりずっと若い(三十六歳、茶髪で長髪)、どことなく浪花の商人っぽい雰囲気の社長が、溌剌とした身振り手振りで、〈伝統の技を継承しつつ、最新の科学的技術を導入した我が社の製造設備〉への自慢をふんだんに織り交ぜながら、今まさに醸造中の純米酒の製造過程を流暢に説明──手慣れたもので、何度も喋るうちに洗練されたらしいよく練られたギャグ(ただし半分はオヤジギャグ)も盛り込みつつ──してくれた。福知山と大阪と新潟の言葉が入り交じって複雑な言語的状況を呈する──なにしろ、福知山弁をあやつる東京農大醸造学科出の山脇杜氏は生まれが博多で時々発音が〈おかしい〉し、福知山生まれの社長は大阪の大学を出たあと灘の大手酒造メーカーで長く営業をしていた人だし、蔵人の〈おっちゃん〉たちは全員米どころ新潟県は長岡市からの出稼ぎなのだ──にぎやかな仕事場の中で、初めて目にする〈お米が少しづつお酒に姿を変えていく過程〉にはとにかく感心しどおしで、木造の清潔な建物の中に香る甘い匂いに酔うどころか、かえって〈身が引き締まる思い〉がして、優子は、自分は愚かだったと反省し、取材の至らなさ、深い話を引き出すような冴えた質問もまるで出来ずに通り一遍の説明──観光客向けか、小学生の会社見学に毛がはえた程度の──を本気で感心しながら聞いていた自分を恥じてもいたので、社長に優しそうな笑顔──まるで子供に向ける笑顔だ──で、どうですか、ええ記事が出来そうですか、と尋ねられると、見栄を張って自信ありげな態度をとる余地もなく、正直に反省の念を伝えて、でも全力はつくします、と答えたのだが、昼からずっと社長の横に並んで工場の中を案内してくれ、時折技術的な説明を加えたり、優子の無知丸出しの質問に丁寧に答え続けてくれた──その間にも技術者たちに声を掛け、きびきびと指示を出しながら──女性杜氏は、その社長とのやり取りの間も、ただ静かな笑みを浮かべて立っているのだった。
 取材の合間にも、話の途中で何枚か写真を撮りはしたけれど、タクシーを降りて初めて寺尾酒造の外観を目にした時から、正面玄関の軒下に吊るされた杉玉──「酒林」と呼ぶとのことで、杉の葉を束ねて作った玉はマリモを大きくして(直径五十センチはありそう)茶色く枯らしたような感じ──の下に、社長と杜氏さんに並んで写真に収まってもらったらいいかな、と思っていたので、その希望を伝えると、女性杜氏が、あら、もう外は真っ暗ですけど、と言うので驚いて腕時計をみると既に午後五時にちかく、昼過ぎに話を聞きはじめたのにもうこんな時間なのか、と驚き、自分の迂闊さに少々落ち込む。長々とお手間を取らせてすいませんと謝り、写真はどうしよう、と困っていると、見かねた女性杜氏が、うちらは全然構いませんけど、お写真は困らはったな、明日の朝もう一度来て写さはったら? 明日になれば、また聞きたいことも思い出さはるやろうし、と気づかってくれる。
 その気づかいに感謝しながら、明日の朝また来ます、ということを伝えると、社長が、今晩福知山に泊まられるのでしたら、是非夕飯をご一緒に、なにせ田舎町のことで洒落たおもてなしも何も出来んのですけど──あ、田澤さんも福知山のお生まれでしたか。これは失礼しました──どうかひとつ、僕はあいにく農協主宰の懇親会があって──農家とのお付き合いは酒造会社の生命線で、おろそかに出来ひんのですわ──ご一緒できませんけど、杜氏の山脇がお相手させていただきますので是非に、と言うのだった。正直、「おもてなし」してもらう資格など自分にはないと思ったので、申し訳ないので、と断わろうとしても、社長は、是非ともお願いします、僕を助けると思って、とまで言うし、実を言えば、女性杜氏を中心に据えた記事を書くつもりが、すっかり酒造りの勉強で取材時間を潰してしまったので、食事しながら、山脇杜氏の話を聞けるのなら、またとなくありがたいお申し出というべきで、優子は、さんざん遠慮するそぶりを見せつつも、最後には、かたじけなくお言葉に甘えることにした。

 ツリーや看板を彩る電飾といった〈クリスマス商戦〉用の飾りつけを済ませたアオイ通り商店街──「空店舗出店者募集中」の貼紙がガラス窓にベタベタ貼られた、内部ががらんとしている古いビルもちらほら混じっている──の奥まったところに、新築らしい五階建のビルがあり、その一階に堂々とした店構え──日本建築風の造りで、白い壁に穿たれた格子窓の障子紙を店内の明かりが薄明るく光らせていて、ほの暗い入口の脇には筆文字で店名を書いた四角い行灯風の照明があり、玄関の左手には金魚が泳いでいる小さな池を配した玉砂利の庭や竹林まである──の郷土料理店があった。こんなビルあったんや、と驚き、高校生が夜遊びする界隈と大人が飲む界隈とはおのずと棲み分けされているので、自分が知らなくても無理はない、という気がしたけれど、よく考えてみれば、そのビルが出来たのはここ数年の話だろうし、福知山を出て十三年にもなろうという自分が知らないのは当たり前だった。ともかく、高齢化が進んで寂れる一方ではなく、生まれ故郷の街にこうして素敵なお店が出来てもいる、と分かると、やはりなんだかんだ言ってもホッとする。

 水墨画風の絵が描いてある屏風を模した仕切板で、いくつもの小さな小上がりに区画分けされた店内を案内されて、奥まった座敷に通されると、間を置かずに、女将とおぼしき女性が現れて、杜氏に、毎度御贔屓に、というような挨拶をし、杜氏も、今日は特別に大切なお客様なのでよろしくお願いします、と返事をするので、優子はますます恐縮して小さくなってしまう。しかも前もって手配していたとみえて、ほどなくテーブルには、その昔明智光秀が天橋立見物への道すがら、福知山城で城主秀満から振舞いを受けたという〈七五三の膳〉もかくやと思われるようなご馳走の数々──お造り盛り合せ、酢牡蛎、コッペ蟹餅米蒸し、出し巻き、山芋の磯辺揚げ、甘鯛の塩焼、湯豆腐、地鶏手羽肉唐揚、天麩羅(穴子、蓮根、ししとう)、ふな寿司、このわた、その他その他──が所狭しと並び、呆気に取られて女性杜氏の顔を見、山脇さん、これって、と恐る恐る尋ねると、杜氏は平気な顔で、田澤さんを接待漬けにしてええ記事書いて貰えいう社長命令やからねええ、誰の懐がいたむわけでもあれへんし──接待交際費か、社長のポケットマネーかよう知らんけど──気に病まんとせいぜい召し上がって下さい、と言うのだが、今日の取材の至らなさ不甲斐なさを思えば、自分にこんなご馳走を食べる資格があるとは到底思えない。
 しかし、杜氏が言うには、日本酒というものはそれだけを単体で味わうより、やはり、食事とともに味わった時にその実力が分かるものなのだし、いくら工場の設備を見てもらい、酒造にあたっての信念や苦心や工夫の数々を言葉で説明したところで、実際に飲んでみて美味しいと思って貰えなければ、実感のこもった記事など書けない(失礼ながら)とも思うので、こうして料理とともにウチのお酒の味を味わってもらうことは、ウチの会社にとっても大切なことなのだ、ということだった。そやさかい遠慮せんとぎょうさん召し上がってください。
 杜氏の説明が続くあいだにも、寺尾酒造のお酒の五合瓶数本と、大きなお盆に乗せた利き酒に使う利き猪口が運ばれてくる。このお店では全銘柄を常備してもらっているとのことで、杜氏はそれらを一本づつ開けながら、この純米は旨味が強いので、味の濃い肴にも負けない、この山廃は自然な酸味が持ち味で、アクの強い山菜などにも合う、この大吟醸は、むしろデザートとしてそれだけで味わったほうがいいように思う、と熱心に説明しながら、自分も飲み、そして食べ──これからの季節、杜氏は体力勝負だから、と言い訳もしつつ──優子にもどんどん食べるように、と勧めるのだった。
 あのとき屋台で出会った『純米大吟醸 女盛』の瓶を手にとってしげしげと眺め、変わった名前という言葉を頭の中で打ち消して、素敵なネーミングですね、と尋ねた。なにしろ、純米酒は『女だてら』、山廃純米は『姐御肌』という名前なのだ。社長さんが考えはるんですか。妙ぉなセンスしてはるでしょ、と屈託なく笑いながら、杜氏は、先代の杜氏の頃には『由良川』とか『音無瀬橋』とか言ったごく穏当な名前のお酒を出していたのだが、蔵元が今の若社長に代替わりして、すぐに杜氏も自分に変わり、その時からあの社長がおかしな名前を付けだしたのだ、と言った。何年間か新しい酒米と酵母の組み合わせを試み、造りを工夫して、昨シーズンようやく満足のいく純米大吟醸が出来た時に、社長がつけてくれた名前が「女盛」だった。社長は今のちづるちゃんにピッタリの名前だと鼻高々だったが、蔵人たち──先代の頃からお世話になっている人たちで、田んぼの仕事を終え十一月になると新潟からやってくる〈おっちゃん〉たち──は、たしかに女盛りだ、そうか杜氏ももう三十か、早いもんだなあ、じゃあ『三十路盛』だなぁ、と口々に言ってからかうので、頭にきた、と杜氏は笑うのだった。
 優子もつられて笑いながら、それにしても、面白い、いや、素敵な社長さんですよね、と訊くと、杜氏は少し真剣な目をして社長のことを説明してくれた。自由放任だが投げやりではない。信頼するからこそ任せてくれるけれど、要求も厳しい。いい酒なら高く売れるんとちゃうか、君がええ酒作ったら、それに見合うだけ儲かって当然やんか、と言って、強気な価格設定をするので、酒の質に見合った適正な価格を、と主張する杜氏としょっちゅう喧嘩している。しかし社長は、物の価値は需要と供給量の関係で決まる、需要が大きければ高くできる、それが世の中や、儲かって経営にゆとりが出来れば、色々な冒険に挑戦出来る、自由に酒が作れるようになる、そのほうが楽しい思うやろ、金はなんぼあっても困るもんとちゃうし、と言って譲らない。
 それで、売るために、あんな楽しいネーミングを? と優子が訊くと、杜氏は少しだけ渋い顔をして、社長はわたしのことを杜氏兼営業部長だと言う、実際、社長と一緒に全国の地酒まつりや、試飲即販会に宣伝に出向く機会は多いから半ば事実ではあるものの、ようは看板娘(だいぶトウは立ったけれど)というわけで、あの社長なら、放っておけば、そのうちラベルに私の顔写真を印刷する、と言い出しかねない、とボヤいた。しかしそう言うだけあって、杜氏は、確かにそうすればお酒の売上増に貢献できるのは間違いない美人だったのだけれど。

 話がいい感じに盛り上がってきた矢先に、ポーチの中で電子音の『東京美人』(のサビの部分)が鳴りだし、杜氏が不審げな目をポーチに向けるので、慌ててケータイを取り出してみると、〈やぐち〉からのメールで、メールを開いてみると、大皿に盛られた立派なタラバ蟹の画像で、蟹の脇にホルスタイン牛の人形のキーホルダーと、マリモ(緑色で丸い)のキーホルダーが並べて置いてあるのが、いかにも彼女らしいイタズラだった。
 ちょっとごめんなさい、北海道に出張している会社の後輩からで、と断りながら、目の前に並んだご馳走の山を、ケータイのデジタルカメラで撮影して、〈やぐち〉に返信すると、ほどなくして、再び『東京美人』が鳴り、「やばいよ。ゆーちゃんこそデブチンになっちゃうよ」という文面だった。
 美味しいものを食べすぎて太るなよ、と後輩が心配してくれているのだ、と杜氏に説明すると、杜氏は屈託なく笑い、いい後輩を持っている、と羨ましがった。お酒も料理も美味しいし、話も弾んで、打ち解けた感じになってくると、杜氏は、それにしても最初に優子さんを見た時は驚いた、と言い、それはもちろん髪の色のことで、街ですれ違ったら絶対に雑誌記者だとは思わない、むしろヤンキー? 大人ヤンキー? とまで言うのだが、優子にしてみればこれでも数年前よりずっと落着いた色で、すっかり〈大人気分〉のつもりなのだけれど。
 楽しいお酒ですっかりいい気持ちになっていたが、いやいや自分は取材での失点を取戻さなければならないのだ、杜氏の人となりを探るのだ、と殊勝な心がけを懸命に取り戻して、陳腐な質問だとは思いながらも、ちづるさん「将来の夢」ってありますか、と切り出した。
 今、地元の農家と提携して、雄町という酒米を作ってもらっていて、その地元の米と地元の水で大吟醸を作りたい。名前は出来れば『由良の華』がいい。由良川の花火大会のイメージで。艶消しの黒に染めた和紙のラベルに草書体で銀文字を入れ、その背景に三尺玉のしだれやなぎが夜空一面にひろがる、そんな花火のようにキラキラとした味のお酒を、と語る杜氏の目はまるで〈夢見る少女〉そのものだったが、結局、とどのつまり、杜氏は仕事一筋、ということらしい。
「でも、ネーミングって社長さんがなさるんですよねえ。また、妙な名前つけられちゃったりとか」
「ほんに心配やわ。『女盛』て名ぁをつけた時も、実はもう一つ案があって、社長、『強がり』いう名前はどうや、ってうちに言うちゃったんよぉ。弱みを見せんと強がって、意気がって暮してるちづるちゃんはカッコエエ思うで、とかなんとか言うて。うち、思わず、社長もしかして口説いてます? って。私を売り出してどうするんですか、お酒を売り出してください、それにうちは強がりやのうてほんまに強いんです、て言うたったら、さよか、ほなら『女盛』で行くか、て」
「あはは。社長さんらしい話ですね。それ、記事に貰っちゃっていいです? あ、社長さん、怒るかな」
「ええんちゃうやろか。かえって喜ばはる思うけど」
 強がり。やっぱり三十代独身って、そう見られるのかな。強がらなければいけないかのように。なにかに押しつぶされて負けてしまいそうに。〈負け犬〉という、雑誌で目にした言葉──とあるエッセイが某大手女性雑誌の文芸賞を受賞したばかりで、それで覚えていた──が浮かび、ふと、ちづるさん、〈負け犬〉って、どう思います、と聞いてみる。
「ああ、あの〈三十代で未婚で子ナシ〉の女はなんたらかんたら言う。うちのことやがぁ」
 と言って三十一歳で独身で仕事一筋の女性杜氏は豪快に笑った。勝ちも負けもない。本人が、楽しんで納得して生きているなら、それで充分。それを聞いて優子は頷く。この人は本当に強い。だけど自分は。確かに毎日充実しているし、仕事は楽しい。毎日のように新しい出来事や、知らない人に出会い、影響を受けて、見識も人間の幅も広がる。しかし、三歳も年下なのに既に二児の母である妹の美子と並んで母の前に立つと、嫌でも引け目のようなものを感じてしまうのだし、それに仕事だって、例えば荒川君なら、自分の理想の実現に向けてすごい勢いで成長していくのに目を見張るほどだけれど、それに比べて自分はどうだろう。毎日を、ただいたずらに過ごしたその果てが、今の自分なのではないか。
 取材相手に愚痴めいたことを言うのもどうか、とはうっすら感じながら、深く考えることもなく、わたし最近思うんです、女の力には限界があるのかなって、と口にすると、杜氏の表情がにわかに険しくなり、わたしは上手くいかないことはすべて性差別が原因だと考えるようなフェミニズムが大嫌いで、その手の人たちは個人的な能力の差まで性差のせいにしたがるし、だいたい、仕事において重要なのは男であるか女であるか以前に人間としてその仕事とどう向き合うかだと、自分は思う、と一息に語るその口調は思いのほか厳しく、その言葉を聞きながら優子は恥じ入るばかりだったが、杜氏が、フッと表情を緩めて、そやけど、うちも、仕事がキツうてかなわん時は、こんなエライ仕事とっとと辞めて、素敵な人のお嫁さんになりたいわぁ、て、しょっちゅう思うてるけど、と笑うので、正直、救われた思いがした。勢いをかって、ズバリ恋人は? と、雑誌記者らしい図々しさを発揮して尋ねてみると、杜氏は、今は仕事が恋人かな、寂しいわあ、と笑うのだった。どんなに作りがエラくても、出来たお酒飲んだら、よし、来年はもっと旨い酒作ったる、って、燃えてまうんやわぁ。

 杜氏がお手洗いに立ったあいだ、優子は、杜氏の言葉を頭の中で反芻していた。仕事に男も女もない。人として仕事に向き合うこと。荒川君のことを思い出す。たしか彼も同じようなことを。心地よく酔いが回りはじめていて、思考の筋道もあちらに飛びこちらに飛び、考えらしい考えもまとまらないうちに、杜氏が戻ってきて、面白そうに喋りだした。
 今、向うの座敷で、あれ、学校の先生のグループやろか、男の人達が「女性タレントでは誰が好きか」みたいな話をしててんけど、で、一番若そうな人が答えはる番になった時、隣の人何て言うたと思わはります? 優子が顔に「?」マークを浮かべて首を傾げていると、女性杜氏は面白そうに、しかしやや憤然とした調子で言った。〈モームス〉とか言いよったら殴るで、やて。考えなしに、あはは、と笑ってしまい、もし杜氏が〈モーニング〉のファンやったら失礼やったな、と悔やんでいると、杜氏は、中澤さんのお膝元や言うのにほんま失礼やわぁ、とさらに怒った口調になるのだった。
 あれ、中澤さんて、わたし、てっきり大阪やと思うてました、と優子が答えると、杜氏はあきれ顔で眉根をそびやかした。いくら中澤さんが好きとは言え、それは『二人暮し』を歌っていた頃からだからせいぜいここ三年の話だし、たまにCDを聴いたりTVで見かけて、素敵やなあ、と同い年の女性として憧れを抱く、という程度だったから、もちろん詳しい経歴などは知らず、それで優子が少し申し訳なさそうな顔をしていると、杜氏は、己の持てる知識を持たざる者に分かち与えるのが嬉しくてたまらない様子で、中澤裕子の経歴を滔々とまくしたてはじめたのだが、その口調は酒造りを語っている時に勝るとも劣らない熱っぽさで、正直言って「引く」という程ではなかったけれど、少々戸惑ったのは確かで、しかし、その話を聞いているうちに最初感じた戸惑いすら些細なことに思えてきたのは、彼女が教えてくれた中澤裕子の経歴──何歳で父親を病気で亡くし、何という幼稚園小学校中学校高校に通い、何歳で大阪で就職し、何歳で東京に出たか──が、まるで優子自身の経歴の写真複写ででもあるかのように寸分違わなかったからだ。
 もしかして私の話? 素性調査でもしたん? といぶかしがるが、もちろんそんな訳はなく、それはまさしく中澤裕子の経歴であるらしくて、優子はそのあまりの暗合ぶりに呆気に取られ、次第に事態が飲み込めてくるにつれて何故か恐ろしいような気持ちがした。同郷、という言葉が酔って麻痺した頭の中をぐるぐる回り続け、杜氏が熱烈に語り続ける声は、とても遠くから聞えるようだった。

 ケータイが鳴る音で我に返り、慌ててポーチの中を探り、ケータイの画面を開くと〈おにへんしゅーちょー〉からの電話だった。無視無視。放っておこ。面倒やし。しかし、コールが十五回を越えると、さすがにマズイかな、と思い直し「仕事の電話だけは取る」という自分への誓約──優子あんたまさかお仕事の電話にも出ないんとちゃうやろね、と心配する母にくどくど言われ、手紙でも書かれ、否応なしに誓約させられたという説もあるが──を思い出し、それに、今日が初対面の取材相手の前で、横着ぶりを晒すのもさすがに恥ずかしいので、ちょっとごめんなさい、と断わってから通話ボタンを押してケータイを耳に当て、周囲の音で声が聞き取りづらいので、席をたってツッカケを履き、店舗の外の廊下に出た。
「はい。もしもし」「田澤君? 橋本だけど」「はい」「ご苦労様。今どこだっけ」「京都ですけど」「明日帰るんだったよね」「その予定です。何か?」「そこから大阪、近いよね」「へっ? あー、まー、近いと言えば近い…」「明日大阪で取材を…」「遠いと言えば思いっきり遠いです」「取材をしてきてくれ」「え? 何です? 薮から棒に」
 話を聞くと、頼んでいたライターが倒れたとか、入院したとかで、企画を完成出来ず、しかし今更他の企画に差し替えるのも時期的に難しく、せっかく関西にいる田澤君が、大阪でタコ焼きの店を数軒取材して来てくれれば、そのB級グルメ食べ歩きの記事はなんとかものになる、と言うのだった。
 自分自身の仕事も立て込んでいるし、この京都取材自体、相当無理をして来ているので、これから大阪に足を延ばすのは正直キツい、というか、ゼッタイ無理、という方向で話をするが、編集長も必死で、いやいや、君なら出来る、そう谷川さんも言っていたぞ、君には大いに期待してるって、と柄にもなく人を持ち上げるようなことまで言い出す。あのババア余計なことを、と額に青筋が立ちそうになるのを感じながら、しかし、上司の頼み、というか、ソフトな口調の業務命令が結局のところ断われるようなものではないことくらい、最初から分かってはいるのだ。
「この埋め合わせはキッチリしてもらいますからね」
「済まないねえ。何でも言ってよ」
「また。すぐそうやって安請け合いする」
「編集長の力を見くびるなよ」
「じゃあ、日本海でイカ釣り取材! 約束しましたからね」
 それは、優子が前々から事あるごとにやりたいやりたい、と言い続けていたアウトドア体験取材の企画──キャンプ、海で釣った魚でバーベキュー、露天風呂巡り、船を借りての海釣り、山歩き、などなど──の一つで、仕事にかこつけて楽しく遊んでしまおう、という本音がみえみえの企画なのだった。
「タコ焼きでイカを釣るのかい。まあいい。イカでもマグロでもなんでも釣っていいから、とにかく頼んだよ。恩に着る」
 取材の方針や記事の〈コンセプト〉、ページ構成などを簡単に打ち合わせ──結局、取材だけでなく、写真撮影も、もちろん原稿をまとめてページの体裁を整えるところまで全部自分でやることになるのだ──詳しいことは追って、という事にして電話を切り、座敷に戻った。
 すっかりご機嫌になった杜氏が、次に行こう次に行こう、と誘うので、仕事のほうは大丈夫ですか、と心配すると、今はまだ吟醸作りが始まっていない──〈試し吟〉と言って、吟醸作りのためのいわば練習試合が丁度明日から仕込みに入る、という話だった──し、それに、わたしは蔵人──今年の長岡は、水害、台風、それにあの地震もあって、例年通りの福知山入りは無理だろうと諦めていたので、全員が顔を揃えてくれたときは泣いて喜んだ──を信頼しているし、一晩や二晩杜氏がいなくてもお酒はちゃんと出来る、となかなか大胆なことを言うのだった。でも、吟醸だけは別やけど。さ、カラオケ行こ、カラオケ。好きが止まらないカラオケに行こう。とことん歌うつもりらしい。

8.

 〈恐いものトップ3〉で第一位に輝くくらいホテルが苦手で、とにかく嫌で、少しでも何かの気配を感じるともう寝つけないので、それだけで泊まりがけの出張はいつも憂鬱なのだが、さいわい昨夜──といっても日付はとっくに今日だったけれど──は、そういう不眠の苦痛にも見舞われずに済み、それはもちろんたくさん飲んだお酒のせいで、ベッドに倒れ込むなり前後不覚になって寝てしまったからなのだった。そうだ、これからは泊まりの時は泥酔して寝てしまえばいいんだわ、と気づき、その〈名案〉というか〈新発見〉を興奮気味に話して真里に思いっきり馬鹿にされたのは、彼女と二人で東北に出張した時だったと思うけれど、あれは何年前だったのだろう。
 あんなに酔って寝たのに、もうすっかり目が覚めてしまって、閉め切るのが恐くてカーテンを開けておいた窓から夜明けの薄暗い光が入ってきて部屋の中の古びた調度類や壁紙の模様をうすぼんやりと浮かび上がらせるなか、優子は見分けがたい天井の微かなシミを、目を見開いて凝視していた。
 昨夜、あのあと杜氏と二人で行ったカラオケボックスで、絶好調に盛り上がっている杜氏が熱唱する『カラスの女房』を聴きながら、優子は〈その女の子〉のことをはっきりと思い出していた。

 〈その女の子〉は地味な顔だちだったうえに、人見知りでいつも友達の後ろに隠れているようなタイプで、目立たず、暗く、そのくせ、いつも周囲からのイジメや、不意の攻撃に対して身構え、他人に弱味を見せないように警戒し、何かあればいつでも牙をむきそうな気性の荒さ、どこか不穏な雰囲気を発してもいて、気むずかしく近寄りがたい感じがしたが、それは優子自身と瓜二つの、まるで生き写しのような性格に他ならず、学校で〈その女の子〉を見かけると、鏡に映した自分を見ているような気がした。〈その女の子〉は確かに中澤裕子という名前だった。
 小学一年生の時だったか、もう二年生になっていたか、あるとき、〈その女の子〉の父親が亡くなった、ということがクラス──優子とは同級だった──で話題になり、その時、優子は自分も父親を亡くして間もなかったので、自分と同じだ、と思って密かに同情していた。しかしある時、級友たちが、〈その女の子〉の父親の死因にまつわる無責任な噂(飲み過ぎが原因だとやら)をきっかけとして、子供らしい無邪気で純粋な残酷さを発揮しながら〈その女の子〉をいじめはじめると、なぜか、優子はいつの間にかその先頭に立っていた。彼女と同じように父親を亡くしていたので、自分もいついじめられるかもしれない、という恐れ、「いじめられる側」ではなく「いじめる側」に立たなければ、という焦りにも似た気持ちがあった。
 しかし〈その女の子〉も負けてはいない。ついに掴み合い、取っ組み合いの喧嘩となり、驚いた担任の先生が止めにはいり、握手をして、一応形の上では「仲直り」をしたのだったが──放課後、家に帰ってみると先生が数人来ていて、母は申し訳なさそうに何度も何度も頭を下げ、先生たちが帰ったあと、こっぴどく叱られた──その後、二人は一切口をきかなかったし、目を合わせることすらせず、お互いの存在を完全に無視しあった。
 クラスが違えばそれきり思い出しもしないし、またクラスが一緒になれば、少し居心地の悪さを感じながら、相手をいないものとして振舞い、中学の頃には、無視しあっていること自体忘れていたし、高校に上がった頃には、時折、男のバイクの後ろにまたがって田舎町を疾走する〈その女の子〉を見かけても何とも思わないくらい、〈記憶の抑圧〉は完璧だった。
 だから、〈その女の子〉のその後の進路など考えてみたこともなかったし、大阪に就職して数年、一念発起して上京した頃はとにかく仕事に夢中だったので、芸能界にも、もちろんアイドルにも何の興味もなく、モーニング娘。というアイドルユニットがデビューしたこともまったく気に止めていなかったし、その中に中澤裕子という少し歳を喰った女の子がいるということをどこかで目にしても、その名前に何かを思い出すということもなく、『二人暮し』を歌う素敵な女性歌手のファンになってからも「歌手」という華やかな存在と地味で暗かった〈その女の子〉が、頭の中で結びつくことはなかった。

 次第に白さを増す天井を見つめ、はっきりしてきたシミの輪郭を目でなぞりながら、優子は、目覚し時計がわりのケータイのアラームが鳴るのを待ったが、なかなか鳴らなかった。ようやく鳴った『東京美人』を、最初の数音で止め、起き上がって身仕度をする。朝食は食べない習慣で、最初からホテルの人に断わってあったので、支度を整えて荷物をまとめると、そのままチェックアウトを済ませた。そして、取材が済んだらまた駅前のこのホテルに寄ればいいと思って、荷物をフロントで預かってもらい、ポーチに手帳とカメラだけを入れて、呼んで貰ったタクシーに乗り、寺尾酒造に向かった。

 夜のうちにうっすらと雪が積もっていて、タイヤにチェーンを巻いていないので徐行気味に走るタクシーが、市民会館と市役所を越えて、右前方に福知山城を眺めながら左折し、すぐに右手に見えて来た音無瀬橋──優子が住んでいた頃はまだ古いコンクリート橋で、その後、今ある白いアーチ橋に変わったのを見た時は、福知山も都会になったような気がしたものだが、掛替えられて十年近くも経つと、塗装もあちこち錆びはじめていて、この小さな街の風景にしっくりと溶け込んでいる──を渡る短い時間に、優子は由良川の水面と、雪化粧をした広い河川敷を眺め、子供の頃、綺麗な浴衣を着て、毎年恒例の花火大会を見物したことを思い出す。橋の欄干に寄りかかって見物したこともあったし、堤防の上や斜面で見た事もあった。毎年、一体これだけの人がどこから集まってくるのか、福知山にはこんなに人が住んでいたのか、と不思議に思うくらいの賑わいで、それでも、浴衣の裾をまくりあげて父に肩車してもらうと、空に咲く大輪の花火はもちろん、川面に写って上下対称の模様に見える様々に意匠を凝らした仕掛け花火も、くまなく見ることができるのだった。
 その父親の肩の感触を遠い記憶の中で探っていると、何故か〈その女の子〉の顔が思い浮かび、泣きそうになった。「あんたかて父さんおらへんやんか」というような台詞を〈その女の子〉が最後まで一度も口にしなかったことに思い当たったのだった。
 対向車線を走ってきた、タイヤにチェーンを巻いた大型トレーラーが、ガチャガチャと音を立てながら通りすぎると、大きなアーチ橋が少し揺れたような気がした。

 寺尾酒造には八時前に到着してしまい、さすがに少し早かったかな、と思いきや、工場ではとっくに人が働いていて、昨日あれほど飲んで騒いだ杜氏も、まったく疲れを見せずに、普通の顔をして、精米担当技術者と酒米の精米具合について熱心に話しあっていた。
 挨拶すると杜氏は、にっこりと笑って、昨日は遅くまで引っ張り回してしまって、と言い、少し申し訳なさそうに、実は社長がまだ出社していない、と言うのだった。社長が来るまでの間、再び蔵の中を見学させて貰うことにして、仕事の邪魔だけはしないように気をつけながら、蔵人の〈おっちゃん〉たちに、杜氏はどんな人ですか、という質問を投げかけると、〈おっちゃん〉たちは一様に、厳しい表情をフッと弛めて、抱腹絶倒のエピソードを面白おかしく教えてくれ、きまって最後に、自分が言ったということは内緒ですよ、と念を押すのだった。
 小一時間ほどして、高そうな三つ揃いのスーツを着て登場した社長──どことなく、〈その筋〉の組の若頭風──と作業服姿の杜氏に正面玄関の酒林の下に並んでもらい、しきりと髪型を気にする杜氏を、早くしないとせっかくの綺麗な雪化粧が溶けてしまう、と急かして、瓦屋根も、庭の五葉松や立派な庭石も、地面も、粉雪の薄い層に被われて斜めに差し込む朝日に白く輝いているなかで、シャッターを切っていると、天が味方してくれているような気がした。
 工場の二階の一番奥まった部屋に祭られている神様──松尾様といって、有名なお酒の神様なのだそうだ──にお参りをし、社長と杜氏に、取材させていただいた御礼と別れの挨拶──いつかまた、ちゃんとお酒のことを勉強してから、もう一度お話をきかせてください──を済ませ、タクシーが到着するのを待つ間、応接室で熱いお茶をご馳走になっていると、社長が、どうです、ええ記事が書けそうですか、と昨日と同じ質問をしたので、優子が今度こそちょっとだけ自信を持って、はい、社長さんにもきっと喜んで貰えると思います、と答えると、若い蔵元は、我が意を得たりという様子で、ニコニコと笑うのだった。

 その三十分後には、優子は、大阪へと向かうJR福知山線の快速列車に乗っていた。寺尾酒造から福知山駅前に向かうタクシーの中で、自分が十八歳まで住んだ元の実家──もう母が大阪に移り住んで何年にもなる──に立ち寄ってみようかとふと思ったが、警察署の裏手にあるその古い市営団地には、誰か知らない家族が住んでいるのか、それとも廃屋のようになってしまっていたら切ないし、もしかすると築三十年にもなる建物は取り壊されてしまっているのかも知れなくて、それを見るのは絶対に嫌だったので、まっすぐホテルに寄って荷物を受け取ると、さっさと電車に乗ってしまった。

 昼前には大阪に着いて、駅前の喫茶店でフレンチトーストとカフェオレという朝昼兼用の食事を簡単に済ませる──パンは一口かじっただけで残してしまう──と、そのままモバイルPCを立ち上げて、編集長から押しつけられたタコ焼き店取材の下調べを始めたのだが、山のようにネット検索に引っかかってきた店をどうやって絞り込んでいいか途方に暮れてしまい、まさかいちいち実際に食べてみて検討する時間も気力もないので、ここは一つ友達の力にすがろうと、大阪時代に自動車教習所で知り合って以来の一番の親友であるりっちゃんに電話してみる。
 優子から電話なんて天変地異でも起るんとちゃう、と懐かしがる彼女に、美味しいタコ焼き屋さんを知らないかと尋ねたが、残念ながら詳しくない、ということで、おまけに、心のどこかで期待していた、大阪におるんやったら泊まっていかへん? という言葉が出なかったのは、相手がもう独身ではないことを思えば当然のことだったが、少し当てが外れたような気がするのも事実なのだ。
 自分が大変な仕事を押しつけられたということに今更ながら気づいて、腹も立つし、焦りもするし、おまけに、朝方は気が張っていて気がつかなかったけれど、電車に揺られるうちにはっきりしてきたのが、どうも二日酔いらしいということで、頭は重いし胸はむかむかするし、好物のフレンチトーストも喉を通らないような状態で、まったく最悪な気分なのだ。昨夜編集長から電話があったときは、お酒が入っていて気が大きくなっていたせいか、何とかなるだろうと高を括って鷹揚に引き受けたけれど、考えてみれば、それを狙ってわざわざあんな夜遅くに電話を掛けてきたのかもしれず、いや、あの古狸ならそれくらいはもちろん計算済みであろうと思われ、すっかりハメられた、ということに気づいても既に手遅れだった。タコ焼き取材は意外と手間取りそうだし、女性杜氏の記事だってなるべく早いうちにまとめたいのに。きもちわるい。
 残る頼りの綱は妹か母親ということになり、特にB級グルメにはうるさい母親──本人はB級に限らないと主張するが、客観的にはどうだろう──なら、色々と知っていそうだったし、せっかく大阪に来ているのに、連絡の一つもしないで東京に帰った、と後から知れたら、また一悶着ありそうだし、例の手紙をまだ開封すらしていないことが少々気にかかったが、その件には触れなければ済む話だ、と思い切って母にメールを打った。
『どこか大阪の美味しいタコ焼き屋さんを教えてください。取材するお店を探しています。』
 即座にケータイに電話が掛かってきた。
「優子あんた今どこにいるん?」
「大阪駅の前の喫茶店やけど」
「あほかいな。そんなところでボヤボヤしてんと、さっさとウチに来ぃ。究極のタコ焼き食べさせたげるさかい」
「え、お母さんが作るん?」
「あほ言いなさんな。プロに決まっとるやろ。はよ来てえな、待っとるで」
 そう言って一方的に電話は切れた。プロのタコ焼き屋さんて誰?

 電車に何駅か乗って、母が移り住んでいる街で降り、駅前の大通りから住宅街へと続く市道に入って五分ほど歩き、信用金庫とおばさん服専門のブティックとワインは置いてなさそうな酒屋と少子化で経営が苦しそうな学習塾のある四つ角を右に入り、精米機のモーターが静かにうなっているお米屋さんを過ぎて、母によればそこの草大福がなかなかイケるというお餅屋さんで手土産に草大福を五つとみたらし団子を五本買い、軽食&居酒屋と看板に書いてあるうえに窓ガラスには手書きの文字で歌声喫茶と書かれてもいる常連以外は誰も寄りつきそうにない怪しげなお店の角でさらに細い小路へと折れて、電話線か水道管の工事で道路を掘り返している工事現場の脇を暇そうな交通誘導員に指示されながら通り抜けると、質屋の向かいの、玄関先に鉢植用の鉢──ただし、冬なので咲いている花はシクラメンと椿くらいであとはお休み中──を道路敷地にはみ出す勢いで所狭しと並べてある家があり、それが母の家だった。
 呼び鈴を鳴らしても、案の定、誰も出ない。ケータイで居場所を聞こうかとも思うが、どうせいつものパターンだと思い直し、そのまま道を進んで、少し大きな通りに出て、左に折れて三軒目のお寿司屋さんの玄関を開けると、カウンターの奥のほうで小柄な中年女性がお造りを肴に昼間からビールを飲んでおり、それが母だった。
 ようやっと来た、あんたが遅いからビールが進んでしもうた、そう不平たらしく言う母に、優子が隣に座りながら、人を呼びつけておいて家にもおらへんくせによう言うわ、と言い返すと、ちゃんとここにおるのが分かったんやからええやないの、と平気な顔をしている。普段から声の大きい母だが、少し酔っているせいかいつもより更に声が大きく、二日酔いの頭にちょっと響く。
 寿司屋の大将が奥から顔を出し、優子お嬢さんご無沙汰してました、と挨拶して、またすぐ引っ込んでしまったので、不思議に思うと、母が、いま奥でタコ焼き焼いてもろとるんや、と説明した。大将のタコ焼きは旨いで。母の話によると、最初は孫たちを喜ばせるために作っていたのだが、生来の凝り性のせいで味を追求しはじめると止まらず、試しに店の常連に出してみたところ、これが評判を呼び、それ以来、店の隠しメニューとして常連の間では有名なタコ焼きなのだ、ということで、ほどなくして大将が持ってきた綺麗な角皿のうえに三つ並んだ大きなタコ焼きは、確かに美味しそうだった。記事にできるかどうかはさておき、とりあえずカメラで写していると、大将が、熱いうちにと勧めるので、二日酔いも忘れて口に運ぶと、生地には鯛のすり身が混ぜ込んであり、中のタコは大きいけれど丁寧に隠し包丁が入っていて食べやすいし、何か下仕事がしてあるらしく、噛むとタコの旨味が口の中に溢れて、旨い、としか言いようがない。
「大将、これ、旨いわ。マジで旨い」
 大将は、おおきに、と言って笑い、二つ目を頬張る優子に、母が、優子もビール貰う? と訊くので、自分が二日酔いだったことを思い出したが、迎え酒で却って気持ち悪いのが治まるかも、という理由を口実にしてビールを貰うことにする。

 何故か昼間から母と二人でビールをさしつさされつしながら、優子は、いつ母の口から例の話が出るのかと身構えたのだが、母は、本当は聞きたくてたまらないはずのその話題に触れる素振りも見せず、大将と近所の商売仲間の噂話や、植木の育ち具合の話を続けるのだったし、考えてみれば、ここ数ヶ月ものあいだ母は、その話題──優子は孫の顔をいつになったら見せてくれるん、あのなんとかさん言う人とはどうなったん、いつまでもグズグズしとるようやったら早いこと別れて見合いでもしてみたらどないなん、といった、顔を見ればまず一番に口にしたし、手紙にまで書いて送ってきた事柄──について口を噤んでいるような気がする。
 ふと思い出した、という調子で母が優子に尋ねた。
「今夜はウチに泊まっていけるんやろ」
「え。いいの?」
「いいに決まってるやないの、あんたの実家やんか」
「ありがとう。ってか、そう思って、まだ宿取ってなかった」
「ちゃっかりしとるわ」
「さすがは麗子さんの娘さんやなあ」
 と、寿司屋の大将も茶々を入れるのだったが、「奥さん」でも「お母さん」でもなく、「麗子さん」──その名前について本人は、たまたまわたしが美人に生まれついたからええけど、これが不美人とか「それなり」やったらすっかり名前負けするところや、まったくうちの親は浅はかや、ほんに美人で助かったわ、というのが決まり文句というか口癖だった──と名前で呼ぶのが気にかかった。
 そう言えば、母親とは喧嘩中だった、ということを思い出すが、もうすっかりそんな緊張感はなく、喧嘩していたこと自体嘘のようで、仲直りの儀式などしなくても、自然と元の関係に戻れるのは、やはり、肉親だからなのだろうか。

「盆や正月でもあらへんのに、こない大袈裟なことせんでも」
「なに言うとるの。せっかく東京から来た娘をうどん一杯で追い返せるわけあらへんやないの。それに、前もって言うてくれれば、なんぼでもおふくろの味を食べさせてやれたのに、急に来るもんやから」
「来い、言うたのお母さんやんか。それに大阪への出張だって昨日急に決まったんやから連絡なんか出来ひんっつうの」
 と、例の大将が握った特上にぎり四人前の大きな寿司桶と、サビ抜き一人前の小さな桶(妹の長男の分)と、仕出し屋から取ったかなり張り込んだらしい立派なオードブルが並んだテーブルを挟んで、言い合いをしている母と娘を、急に招集──優子がせっかく来てるんやから顔見せないな、と母が電話で一方的にまくしたてた──を掛けられて、家族全員でやってきた妹の夫が、まあまあ、となだめる。
 ともあれ、母と、長女と、次女と、次女の夫と子供二人、四歳の長男、大翔──それをヒロトと呼ぶと聞かされた時、大をヒロと呼ぶのは分かるがトは読めない、というと妹は翔ぶのトだから読める、と言い張った──と、一歳一ヶ月の長女、璃緒葉──と書いてリオハと読ませることには文句はなかった(でもスペインの地名みたい)けれど、この子は何歳になったら自分の名前を漢字で書けるのか、と余計な心配をした──とが一堂に会するにぎやかな宴となり、お互いの近況を説明しあい──優子は〈あのばか〉と切れたことや、まだどうなると決まったわけでもない荒川のことは当然割愛して、仕事のことを話し──ながら、料理をつついていると、大翔が、今日は誰の誕生日なん? と尋ねて、みんなで笑ったのだが、優子が、ほら、やっぱりこんなご馳走贅沢なのよ、と話を蒸し返すと、妹──三つ歳下だが、さすがに二児の母で姉よりぐっと落ちついている──が、いや、そうは言うても、こないな半端な時期に里帰りしたら、ゆうねえ、面倒臭うなって正月帰ってきいひんやろ、ええやないの年越しの前倒しやと思えば、と言い、母と義理の息子は賛同して深く頷くのだった。
 ビールを飲みながら、今年の正月以来だからほぼ一年ぶりに訪れた実家──とはいえこの家に住んだことはないので「帰ってきた」という気はまるでせず「お邪魔している」気分なのだが──の居間のあちこちを物珍しく眺めていると、テレビの横の背の低い飾り棚の上には、見事な胡蝶蘭──趣味でやっている切り絵の展覧会を開いた時に、カラオケ教室の生徒さんから頂いたもの──が咲き誇り、窓側の棚の上にはいくつもの観葉植物や名前のよく分からない花が元気よく咲いていて、その中には、いくつにも株が増えて大きく葉を茂らせているプテリスもあり、少々情けない気分を味わっていると、母と妹の会話は、今度母が再婚する相手の話、という話題になっており、寝耳に水で驚いていると、妹は、何や、ゆうねえ、聞いてなかったんか、と呆れ、母は、優子やっぱり手紙読んでへんのや、と怒り顔になるので、ああ、あの手紙は再婚するという報告だったのか──なんや。てっきり喧嘩を蒸し返すような、読んだらはらわたが煮えくりかえる手紙かと思うたわ──と得心するものの、それにしても母の再婚には驚いた。
 しかも、そのお相手はあの寿司屋の大将尾崎さんだというのだからさらに驚きで──さっきかておくびにも出さへんし。喋るキッカケがあらへんかっただけやないの──優子は、えー、うそぉ、信じられへん、とうわ言のように繰り返すばかりだったが、母はすました顔で、お父さんが死んで二十五年、四半世紀や、もうそろそろ天国のお父さんも許してくれはるやろ、と言って、居間の隣の部屋にある仏壇──実家に来てすぐに優子も線香を上げ、お父さんに、福知山は雪やったよ、と報告したのだが、その時になって、福知山まで行っていながらお墓参りをしなかったことにはたと気づき、でも、こうして位牌に挨拶できたからいいよね、と言い訳も済ませていた──に向かって手を合わせる。
 しかし、尾崎さんには、たしか娘が三人いたはずで、ということは義理の妹が一度に三人も増えるのか、と唖然としていると、妹は、それだけやない、姪っ子や甥っ子も一気に五人増える、と説明するし、それより何より、優子にとって問題なのは、新たな尾崎家(ということになるのだろう)の五人娘の中で、一番年上の自分だけが、独身の「売れ残り」になるという事実で、行かず後家、などというおぞましい言葉も脳裏をよぎるのだった。
 大翔が、お婆ちゃん結婚するの? 子供生むの? と無邪気な質問をするので、優子が、さすがにそれは、と言いながら母のほうをみると、母は、出来るか出来ないかまだわからん、と平気な顔をしているので、驚いて、お母さんまだ「あがって」なかったん? と聞いてしまい、ふん、と鼻を鳴らした母に、失礼なことを言いなさんな、とたしなめられた。
「大翔。お前に年下の叔父さんが出来るかもしれへんよ」
「順番がおかしいなあ」
 と妹夫婦が言い合い、優子は、順番が逆なのも常識外れなら、順番は合っているとはいえ三十以上も歳の離れた弟(か妹)が出来るのは、もっと常識外れだ、と思い、五十を過ぎた母親のバイタリティにあやかりたい気分だった。
「もしかしてお母さん、あの時旅行の誘いを断わったのって」
 と、ふと気がついて訊いてみると、
「そや。尾崎さんとデート。天橋立見物して、温泉に浸かって」
 と、悪びれもせずに──語尾にハートマークがついていそうな口調だ。くそ──答えるので、優子も、
「あー。それじゃあしょうがないよなー。やっぱり娘より恋人だよね」
 と言う他なく、それを聞いた母親も、何を当たり前のことを、と言いたげだった。

 お寿司を半分ほど食べ、オードブルの中の好物もあらかた食べてしまった大翔が、母親に甘えだした。
「なあ、おかん」
「こら! 誰がおかんや。どこで覚えてきたん、そんな口の聞き方」
「幼稚園で」
「減らず口きかんとき。お母さん、て呼び、言うたやろ」
 しおらしくうなずいた大翔が、なあ、お母さん、ゼリー食べてもいい? と甘えっ子の顔になって、妹が、いいけど、と言いかけた途端、ダッシュで冷蔵庫に駆け寄り、優子が、すばしこいなぁ、今のフライングちゃうん、と言い終える前には、ゼリーを持って戻って来た。開けたゼリーの蓋の裏をいじましく舐めている大翔に向かって、妹が小言を言う。
「ゼリー食べてもええけど、まだお寿司残ってるし、ほら、この牛乳も、ちゃんと食べるんやで」
「へえ。牛乳って食べるんや」
 そう言って、大翔はスプーンでコップの中の牛乳をすくって食べるフリをする。
「大翔、つまらないツッコミ入れんとき。おもろないで。恥ずかしいわ」
「あ。おもろない、ってことが問題なんだ」
「そや。こうやって関西人の笑いのセンスが鍛えられるんや」
「英才教育やな」

 ゼリーを平らげた大翔は、もうごちそうさま、と言い、父親に手と口を拭いてもらい、見ていると、もうすでに何かの戦隊モノのヒーローになっているらしい。
「グランビームっ、はあっ!」
 と、まだ歩けないし片言も喋れない妹を敵の手下に見立てて、やっつける真似をし、母親にこっぴどく叱られた。
「大翔、何してんの」
「だってこいつオエオエ団やもん。悪者をやっつけろ!」
「アホなこと言わんとき! 妹をいじめたらあかんやないの」
 火がついたように泣き出した璃緒葉を、母親が抱き上げてあやす。
 元気な子供の姿を見ていると、その元気を分けて貰えるような気がする。ええなあ、子供。楽しそうやな、と優子が溜め息をつくと、そうやろ、と母は孫たちを見て目を細め、そうか? と、妹は疲れきった声を出し、璃緒葉──泣きやんでいるくせに、床に降ろそうとすると、途端にグズりだす──を重そうに抱え直す。
「美子、毎日元気な姿拝ましてもろて、感謝せな」
「うんうん。毎日一杯元気貰ってるよー、もう充分、もうたくさん、と言うくらい」という妹の口調はわざとらしく暗い。
「あれ? 大丈夫? 元気吸い取られてない? 逆に」
「なんなら一匹持って帰るか、ゆうねえ。大翔、お前、優子ねえちゃんの家の子供になるか?」
「うん。なる。グランパンチ」
「いて。少しは加減しいや、大翔」
「口うるさい母親から開放されるもんなあ、大翔」
「うん。お母さんバイバイ。オレ、おばちゃんちの子になるわ」
「おばちゃん? あのなあ大翔。こないだ会ったときお姉さんって呼びやって、言うたやん」
「こないだ、っていつの話やの。もう一年も前やないの。覚えとけ言うほうが無理やわ」
「それに本当に伯母さんやしな」
「いや、たしかに続柄は伯母かもしれへんけど、いいやないの、お姉さんて呼んで貰ろたかて」
 そう言いあっているうちに、今度は優子が悪の手先になったらしく、大翔の正義の鉄拳を受けた。
「グランビーム、はーっ!」
「いてて。グランビームって何?」
「あれ? ゆうねえ知らんの? 『ほーむめーかー』に出てた戦隊モンやん」
「グランパーンチ、はーっ!」
 再び背中に、案外馬鹿にできない打撃を受けて、優子はつい本気を出して、飛び掛かってきたヒーローを両脚の間に挟んで──スカートが少々めくれあがるのもお構いなしに──押さえつける。
「やったな。グラン四の字固め!」
「そんな技ないもん」と不平を言いながら暴れる正義の味方を脚で押さえつけたまま、妹に話しかける。
「ああ、あの昼ドラか。中澤さんが主演してた」
「そや。大翔と一緒に見とったら、こいつすっかりハマりよってん」
「おばちゃん知らんの?」
「だーかーらー、お姉さん言えいうとるやろ。グランこちょこちょこちょこちょ」
 大翔の体を両腕で抱え込み、逃げられないようにしてくすぐると、大翔はゲラゲラ笑いながら身をよじって暴れた。
 そう言えば、中澤さん、昼ドラの主役やったんや。頑張ってる。輝いてる。優子は自分が彼女にインタヴューするところを想像した。もし、私のこと覚えてますか? と訊いたら。思い出してくれる? 無理? それとも、思い出せないフリを貫く? お互いを無視しあった十年あまり、忘れ去っていた十数年、失われた時間を取戻すことは出来ないけれど。でも、もしかしたら、彼女と私は、一つボタンを掛け違えてしまっただけで、本当は親友になれたのかもしれない。そんな気がする。
「いつか中澤さんにインタヴューとか出来るといいな、ゆうねえも」
「え。今ちょうどそのことを考えて。なんで分かるん」
「姉妹やもん。顔に書いてあることくらい読めるって」
「またまた。はったりやろ」
「バレたか」

 とうとう、参った参った、といってギブアップした大翔を開放してやると、暴れるのには飽きたらしく、大人しく自動車の玩具で遊びだした。
 気兼ねのないお喋りと、子供の笑い声に、お酒の酔いも手伝って、すっかりいい気分になり、そう言えばタコ焼き取材が全然進んでいないことに気がつくが、いいや明日頑張れば、と考えてとりあえず仕事のことは忘れることに決定し、ビールを飲んだ。
「いやあ、やっぱりええなあ、ふるさとって。なんかこう、ふるさとにはさー、アレルギーが……あっ! 違う違う違う、あっはっはっはっは! あのね、違うナニ言うてんの!?」
「ゆうねえ、自分で言い間違ごうて、揚げ句に逆ギレか」
「いや、私が言いたかったのはエネルギーが」
「ほおお、アレルギーねえ。母親の実家に来たらジンマシン出るんや」
「いや、言ってないから!」
「可愛い妹の顔見たら、目ぇカユなって涙止まらへんのや」
「だーかーらー」
「クシャミと鼻水が」
「言い間違えただけやんか! 何? 二人して」
 その言い間違え一つでしばらく笑いが止まらず、本日の流行語大賞は「ふるさとアレルギー」で決まりやな、東京に慣れてしもうたら大阪の水は体に合わへんのやて、と散々茶化され続けて、結局、ふるさとにはエネルギーがある、という科白は言えずじまいで、ちょっとむくれていると、妹が追い打ちを掛けるように、昔さんざんいじめられた仕返しや、と言って笑う。いまさら何を。確かに子供の頃は、性格悪い姉だったけど。
「いくらなんでも、それは時効やろ」
「ふん。私の負うた深い深い心のキズは、」
「こらこら、二人っきりの姉妹や。仲良うせな」
「お母さんだっていじめたくせに」
 妹が、ふと思い出したように、そう言えばゆうねえ、お母さんと喧嘩してなかった? と切り出したのに、母と優子が、あれ、してたっけ喧嘩? さあ。と、トボけていると、むっとした美子が、母の代わりに例の話題を持ちだす。
「ところで、あの人とはどうなったん?」
「とっくに切れた」
「あ。そうなんや」
 妹が、ご愁傷さまと言いたげな表情をする横で、母は、黙って仏頂面をしている。そう言えば、母がその話題に触れずにいたのは〈あのばか〉とはもう終ったということに気づいていたからかもしれず、やはり母親の勘というものは侮れない。それにしてもなんで分かるん。声の調子。顔色。肌のツヤ。腰のあたりに充実感がなくて〈スカスカしている〉とか。いやらしいわ。
 おもむろに母が口を開き、もう優子には頼らない、仕事に嫁いだと思って諦める、これからは大翔と璃緒葉の時代、それに尾崎さんと一緒になれば、もう五人孫も増えるのだし、優子に頑張ってもらうまでもない、と言い出し、そう見放されると、孫を見せろとせっつかれるより更に身にこたえるのだった。
 私だってまだまだ諦めてないから! 35までにはなんとか、と言った時に、ふと荒川の顔が脳裏に浮かび、そう言えば〈あらかわく〉は長男やろか、もし一緒になったらお姑さんと同居やろか、と先走ったことを考えている自分が、本当にお調子者に思えてくる。妹が、おっ、ゆうねえの結婚宣言や、確かに聞いたで、女に二言はないで、と姉を追い込みはじめたちょうどその時、父親の膝に抱かれてちょこんと座っていた璃緒葉が、拍手をするように小さな両手を打ち鳴らしはじめ、一座が笑いに包まれた。
 絶妙なタイミングやったな。ほんとに意味が分かってるみたい。いや、実際全部わかってるんやで、喋らへんだけで。

 ソファの横に置いた優子のポーチの中で、着信音が鳴りはじめたので、優子はケータイを取り出した。〈あらかわく〉からのメールだった。優子はソファの横に立ったままメールを読んだ。
『他社に移ることにしました。新しく立ち上げる思想系の雑誌を担当します』
 なんやの、と訊く母に、会社の後輩が──まあ嘘ではない──会社を辞めるとかで、と答え、色々大変やなあ、と呟く母に、まったく、と答えながらソファに座り、返信を打つ。
『夢がかなってよかったね』
 彼はこうやって一つ一つ自分の夢を叶えて、理想に近づいていく。そうして私からは離れていくのだろうか。間をおかず返信が来る。
『毎日会えなくなる。つらい。』
『夢のためでしょ! 我慢せな!』
『耐えられない。毎日会いたい。だからつきあってください。』
 どきどきしながらその短い文面を読み返していると、何度もメールが来ることを母が心配するので、色々悩んでいるらしい──それもまあ、嘘ではない──と答え、小さな液晶画面に映し出された「つきあってください」の文字をじっと見つめていると、嬉しさの反面、アホか、こんな大事な話メールで済ますな、と言う怒りも湧いてきて、そうこうするうちに、今度は電話が来た。
 ちょっとごめん、と断わって廊下に出て、寒い玄関先で通話ボタンを押した。
「優子さん、荒川です」
「はい」
「こんな大事な話、メールですんなや、って優子さんが怒鳴っているような気がして」
「分かってるやん」
「あの。今のメール見てもらえました?」
「見た」
「あの」
「何?」
「だから」
「だから何?」やべっ。つい〈切れキャラ〉が。
「優子さんが好きです。付合ってください」
 ふーんそうなん。アホか。からかってるん。ありがとう、わたしも好きよ。うん、ええよ。そんな急に言われても。どう返事すれば。返答につまって、鉢植えの立派なゴムの木の葉を指でいじる。
「あの。返事は、今すぐじゃなくても」
「うん」
 料理の苦手な女でもいいん? って、それは先走りすぎ。でも、料理なら僕がします、って、フツーに言ってくれそうやけど。 「あの。優子さん?」
「なに?」
「あの、とりあえず、24日にタイユヴァン・ロビュションのクリスマス・ディナーを予約したんで、ぜひご一緒に」
 ちょっと震えてるんじゃない、と思えるほどの緊張ぶりについおかしくなって笑ってしまいながら、
「ん。分かった」
 と答えて電話を切ったのだが、切ってから思ったのが、よく予約が取れたなあ(いつから取ってあったん?)、ということで、それより何より、あんな格式張ったお城のようなレストラン──少女趣味という話もある──に、一体荒川がどんな恰好で行くのかが興味深いし、いや、人の心配をする前に自分もワンピースくらい新調しようか、とすっかり乗り気になっていたのだが、考えてみれば〈地獄の年末進行〉の真っ只中な訳で、その最中に悠長にフレンチなんか食べに恵比寿まで出られるのか、キャンセル料だけ払っておしまいという結末にならないかどうかが不安だった。

 居間に戻ると、母が心配そうな顔で、大丈夫かと尋ねるので、ようやく落着いたらしい、と適当に答えて食卓につくと、テーブルの上の寿司桶やオードブルは既に片づけられ──まだまだ飲みそうな優子と義理の弟の前にだけ、皿に盛り直したオードブルの残りとビールが三本置いてある。さすが。分かってる──かわりに菓子盆に草大福とみたらし団子が並べられ、母がお茶を入れているのだが、よく見ると草大福は十個、みたらしも十本あり、あれ、増えてる、と驚くと、母が、美子があんたと同じ店で同じもんを同じ数だけ買うてきた、と説明した。あんたら姉妹は、しょうもないところで息が合うんやな。まったく、間ぁの悪い。
 しょうもないとは失礼な、ねえ? と妹の夫に同意を求めると、義母と義姉のどちらに加勢するか決めかねた義弟は、曖昧に笑いながら優子にビールを勧めた。
 こうしてまた新しい恋へと踏み出していくのだ。少し前なら、考えただけで億劫な気持ちが先に立ったのだけれど、今こうして〈あらかわく〉の顔を思い浮かべてみても、気持ちが浮き立つばかりだった。また恋するけれどいいでしょ、お母さん。
「ゆうねえ、何ニヤニヤしとるん」
「え。ニヤニヤ? してた?」
「何となく顔が赤いような。いいことでもあったん?」
「いや。別に」
「わかった。さっきの電話、彼氏からやろ」鋭い。
「いやいや。違うから」
 荒川と何をしようかな。これまで生きてきたなかで、してこなかった、初めてのことを。あいつ、どんな男になるやろか。私はどんな女に変わるやろか。変われる? 可愛い女の子に、なれるかな。
 恋の始まりを前祝いするつもりで、優子は、心の中で乾杯をし、コップになみなみと注がれたビールを一息に飲み干した。





(終)





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('04/11/08初出)
('04/11/10細部修正)
('04/11/30改訂)