La déconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 après le 1er juin 2007

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過去日記(2008.1,2,3)





Cheese inリフリジーター日記
 テキトーで、ぽけぽけぷーで、荒唐無稽という困難なキャラに挑みつつも、フォトジェニッカーとしてファンを魅了し続ける、黙っていれば正統派美少女、口を開けばアホキャラ満開の、世界一可愛くて、謎めいた魔性の女、亀井絵里に萌え狂う日々。
 そして美貴ちゃんの復帰を信じ続け、美貴ちゃんを辛い目に遭わせているものにたいして粘り強く批判を継続する日記。

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迎春待帝

2008.01.01(火)
■迎春待帝

藤本美貴 『新年』



<都合により一部抹消>




 と、言うわけで。

 元旦から、こんなサイトを巡回しているそこのアナタ、相当にアレですね!
 元旦から、こんなサイトを更新しているこっちは、さらにアレですがね! orz

 という、元旦恒例の冗談はさておきまして(笑)

 新年を迎えるにあたりまして、溌剌としていて、ポジティブで、茶目っ気もたっぷりの、まさに美貴ちゃんらしい、美貴ちゃんのため名曲『満月』(詩:つんく、曲:つんく、唄:藤本美貴)を替歌にしまして、2008年の当サイト新春のご挨拶に代えさせていただきました。

 2008年こそは、メディアを通じて、美貴ちゃんの笑顔と歌声に、再び出会えますように。

あいだつ恒例新春歌会始

从*・ 。.・)<恒例ってのが、新春早々大嘘ですよね

ヤン土ならこの道重にお任せを (小悪魔親方)

从*・ 。.・)<藤本さんの帰ってくる席なんてないですから(笑)

从VvV从< ぶっちゃけ、こんうさより面白いよね

从*・ 。.・)< ………(唖然)…………なので、存分にボケボケしててくださいね♪

「藤本さん、って誰でしたっけ?」とスットボケ (性悪かめちゃん)

ノノ*^ー^)<今年こそ、一度は美貴様を泣かせてみたい、ってのが新年の抱負でし!

美貴ちゃんの笑顔信じて年明けぬ (痛井ッ亭。)

 ちなみに、日記のサブタイトルにしたオリジナル四字熟語、「迎春待帝」は、もちろん、春を迎えて美貴帝様の復帰を待つ、という意味です。

从VvV从< 新春ハロコンの最終日にサプライズゲスト!

从VvV从< なあんてね。

 なあんてことがあれば、最高のお年玉なんですが。

ノノ*^ー^)<AOKYって分かります、痛さん?

ノノ*^ー^)<あけおめことよろ! ですよ。

 かめちゃんがメンバーに送る年賀メールは「あけおめことよろ」の一言だそうです。ホントか嘘か。来年からは、AOKYってことで、さらに手抜きしてください(笑)(このネタ、某所に送りました)

 ともあれ、昨年中は、皆さま、いろいろとお世話になりました。
 今年もよろしくお願いいたします。
 元気に、モーニング娘。たちを応援していきましょう!

2008.01.08(火)
■紅白歌合戦──大衆消費文化の象徴としての

 2007年12月31日、第58回NHK紅白歌合戦、われらがモーニング娘。が歌うことを許されたのは、結局『LOVEマシーン』だった。リーダー高橋愛は「出来れば『みかん』を歌いたいんですけどね」と、ラジオで語っていたのだったが。
 結局のところ、大衆消費文化において、モーニング娘。とは、『LOVEマシーン』に尽きる存在(そして遅くとも『ザ☆ピ〜ス』で終わった存在)であり、その代表曲の代名詞に過ぎないのだ。『LOVEマシーン』でおなじみの「モーニング娘。」。決して現モーニング娘。を否定するために言うのではない。それが大衆消費文化の残酷な現実だということにすぎない。そして、NHKがマス(大衆)メディアの支配者、管理者を自負する存在であり、紅白歌合戦が大衆消費文化の象徴である以上、モーニング娘。が、新曲『みかん』を歌えないという悲しい現実もまた、当然すぎるほど当然のことだ。
 モーニング娘。ばかりではない。美川憲一と言えば「さそり座の女」であり、平原綾香は「Jupiter」一曲で終わった存在であり、あみんとは「待つわ」と同義であり、寺尾聰は「ルビーの指環」であり、鳥羽一郎は「兄弟船」、布施明と言えば「君は薔薇より美しい」、前川清は「そして、神戸」、石川さゆりは「津軽海峡・冬景色」、御大和田アキ子でさえ「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌うのであり、秋川雅史に至っては「千の風になって」以外の曲を歌うことを許される可能性など万に一つもない。一般に、新曲が披露できる可能性は低く、それも2007年中に、よほど世間の話題をさらったのでもない限り、あのセットリストの中の一曲として認められることは難しいであろう。そして、代表曲の奴隷とされる歌手ばかりではなく、歌自体もまた、歌番組の都合に従属するものとして手荒に扱われる。歌の最中に、歌の内容とは無関係な2007年を騒がせた社会問題の映像が流れ、テロップが入り、歌は単なるBGMに格下げされる。また、売れない歌手の後ろでは、バックダンサー達が無関係なパフォーマンスを繰り広げ、こんな歌だけでは視聴率が取れないと言わんばかりに、視聴者の関心を歌から奪い去る。小林幸子は例によって衣装=大道具のうえに磔にされて身動きすらままならず、その歌もろとも舞台装置の下に踏みつけにされる。それに比べれば、いかにも大御所然として、大勢を従えて歌う北島三郎和田アキ子両御大は、その地位に相応しい「マシな」扱いを受けているとも言えるが、しかし、その演出の結果表現されるものは、歌の持つ力や美しさというよりも、大御所らしさ、権威、地位、貫禄などといった歌の内容とは無縁のものになっており、歌そのものは、やはり売れない歌手のそれ同様、傷つけられ、虐げられている。それが大衆消費文化としての歌謡曲、J-POPSの偽らざる現実である。仮に宇多田ヒカルがこの番組に出演するとすれば、おそらく「Automatic」を歌うことを求められるのは間違いない。なぜなら、彼女ですら、大衆消費文化の次元では、あの一曲で終わった存在であり、その後作られた素晴らしい楽曲の数々がいくらミリオンセラーになろうとも、それは「ポピュラー音楽の世界」の内部事情に過ぎず、世間にとってさほど重要な問題ではないからだ。紅白歌合戦という大衆消費文化的秩序を象徴する場においては、どのような素晴らしいアーティストであっても、ひとつの大衆文化的消費財として扱われる他ないという、悲惨な現実。その現実に抵抗するために、多くのミュージシャンたちが、過去、そして今も、紅白歌合戦への出演を固辞しているのではないだろうか。

 大衆消費文化の消費過程においては、いわゆる「アーティスト」は、大衆的に認知された曲=ヒット曲=優良商品の奴隷に過ぎない。そのことの残酷さを、今回もっとも顕わに体現していたのは、おそらく、「ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図〜紅白ヴァージョン」を歌った DREAMS COME TRUE の吉田美和であろう。吉田美和(42歳)の事実婚の夫君が、一種の癌により33歳という若さで世を去ったのは、9月末、わずか3ヶ月前である。噂では、彼女は夫の死以来、毎日泣き暮らしており情緒も安定を欠いていたというが、それもあまりに当然の話だろう。披露された、「ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図」は、10月3日に発売されたばかりの新曲であり、夫の死の直前まで続いたツアーの中でも歌い続けられていたのだったが、吉田は、おそらくは、この楽曲を、病床の夫を思いながら、彼の回復と、2人の明るい未来を願って作ったのだろう。夫の死を覚悟したうえで書いた曲とは思えない。その楽曲を夫の死後に歌うことの辛さを思う。たしかに、紅白のリハーサルの後、大先輩の和田アキ子は彼女を抱きしめ励ましてくれたかもしれない。しかし、ゲイや性同一性障害などの性的多様性には一定の理解を示すことのできるNHKも、事実婚、内縁の夫という、法律婚制度への挑戦とも言える存在、旧弊な世間の秩序や良俗に反する者を、番組内で正面から認め、その死を公式に悼むことなど、現状では望み得ないことである。だから、スポーツ新聞などが「辛い夫の死を乗り越えて」という文脈で悲劇を物語化しようとしても、紅白という場では、夫の死自体がないものとされてしまう。そのうえで、彼女は辛い歌を懸命に歌うのだ、痛々しい歌詞の数々を。ア・イ・シ・テ・ルって 伝えられてるかな?/ふたりの"今"が"昨日"に変わる前に、ふたりの時は既に過去にしか存在しないというのに。ねぇ わたしたちの未来予想図は まだどこかへたどりつく途中、もう共に思い描く未来などないというのに。新しいサインが 増える時にも、それはもはや増えることは決してないというのに(以上、歌詞は全て、「ア・イ・シ・テ・ルのサイン〜わたしたちの未来予想図〜」(作詞:吉田美和)からの引用)。悲しみにくれる、普通の神経の持ち主に、この時期、この曲が、どうして歌えるだろうか。これを歌うことは、いったいどうして決まったのか。昔よく聴いた吉田美和の歌は、CDで聴くと意外と教科書的な律儀さがあってつまらないことが多かったのだが、殊、生で歌う場合には、TVであれ、ライブであれ、その明るく伸びやかな歌声と、圧倒的な歌い手としての技量に裏付けられた、生命力を感じさせる活き活きとした歌は、音楽することの喜びに満ち溢れた比類のないものであった。だが、今回の紅白での歌唱には、その片鱗すらなかったと言ってよい。もちろん彼女ほどの技量と経験の持ち主であれば、心が遠くにあっても、外形上は見事な歌唱を作り上げてみせることができるし、事実その歌は、高いレベルを維持していたと言ってもよい。だが、それは、彼女自身のベストパフォーマンスの、出来上がった枠をなぞる上手なぬり絵でしかなかった。それは、あまりにも生彩を欠く、ほとんど惨たらしいとさえ言える音楽的廃墟であった。嘘で塗り固めた偽りの喜びの表情が義務的に連なる無残なパフォーマンス。やけっぱちとも思える観衆への、表面的な、形だけの煽り。しかし、それ以外に、彼女に何が出来たであろう。そうしてまで、あそこで歌わなければならないということ、その哀れな姿を電波に乗せなければならないという事実、それが、大衆消費文化の消費財であることの悲惨さであり、大衆消費文化というもの自体の虚偽性、欺瞞性、残酷さの本質的な表れである。

 そのような大衆消費文化の過酷さの渦中で、われらがハロプロは、なかなか善戦したと言えるのではないか。過去の栄光である錚々たるOGメンバーを駆り出す回顧調の姿勢ではなく、Berryz工房、℃-ute、という二組の初出場を実現し、現モーニング娘。と、キッズのメンバーを加えた「ハロー!プロジェクト10周年記念紅白スペシャル隊」で勝負する様は、まちがいなく未来を志向していた。また、メドレーを歌うという方法が──マッシュアップ的手法を取り入れて「恋レボ」や「ピース」と言った黄金期楽曲の断片を紛れ込ませつつ──、真新しい新曲、紅白というハレの場が初披露である楽曲『LALALA 幸せの歌』で、ちゃっかりステージを締めくくることをも可能にしていた。そのことの持つ、大衆消費文化に対するロック的抵抗の意義は、決して小さなものではないと思う。それは、「ラブマ」だけの私たちじゃない、今も、日々新しい歌を歌い続けているんだ、という意思の表明、大衆文化的残酷さへの異義申し立てだった。もっとも、それが可能なのも、「ラブマ」をはじめとする大衆文化的共有財が、今なお現役で流通しうる価値を認められているからに過ぎないということも、併せて注記しなければ公平とは言えないのかもしれないが。
 だが、ハロプロのメンバーたちは、紅白用にわざわざ新しく構成されたメドレーのために、新しい振り付け(コレオグラフ)を覚え、練習を重ね、披露したのだ。すでに落目ともいえる紅白歌合戦のために、ここまで準備に手間と時間を掛け懸命に働いたスタッフチーム、やる気のあるグループが他にあっただろうか。
 紅白歌合戦の直前、スポーツ新聞には「アイドルの保守本道の王座を争う」という物語化を通じて、ハロプロとAKB48との対決の構図を煽る記事が出ていた。リーダー高橋愛は「負けたくないですね」と語り、表面的には、勝負を受けて立つ、という姿勢を見せながら、相手を対等と認めてみせることでAKB48にエールを送っていたと言ってよい。しかし、CDや関連商品の売り上げなどといった商業主義的で皮相な次元での闘争はさておき、その活動の精神的意義における闘争、想像的次元での闘争においては、AKB48は「対決」するに値する相手だったのだろうか。AKB48についてはほとんど何も知らないので、その点については何も語ることはない。しかし、あの番組を見た印象としては、AKB48はその名の通り「アキバ系」という2007年の流行現象の象徴として、リア・ディゾンというアメリカからの出稼ぎグラビアアイドル、そしてヲタク系アイドルブロガー、ショコタンこと中川翔子と併せて、一括りの枠で紅白歌合戦に出場していたと言えるように思われる。その中では、中川翔子の歌が意外と力強く、ヲタクの知性と底力、長い下積みで培った根性を見せていたように思えるが、それはさておき、この3組は合同で秋元康の「なんてったってアイドル」を歌ったのだった。本来、この歌はアイドル自身が「アイドル」の虚構性を暴き、皮肉ってみせるという批評性をも有している曲だが、今回歌われた短い一節では、その批評性は表現されず、結局は「アイドルはやめられない」「アイドル最高」という単純なアイドル賛美へと貶められていたように思われる。そのパフォーマンスは、確かに「アイドルの保守本道」を志向していたとも言い得るだろう。しかしモーニング娘。たちは違う。彼女達のパフォーマンスとは、彼女達を典型的なアイドルの枠に押し込めようとする事務所側の意図と、その支配の下にありながらも、作品やパフォーマンスを通じてそれに抵抗しようとするプロデューサーつんく♂とメンバーたちによるアイドル批判の実践、その両者間の弁証法的闘争過程そのものである。そのパフォーマンスは、モーニング娘。が本来「アイドルの保守本流」などではいささかもなく、まさに革新勢力であったこと、アイドルによる「アイドル」概念批判であったことを、常に再認識させるものでもある。従って「アイドルの保守本流の王座」を巡る争いなど、最初から、そこに成立することはないのだ。
 ロボット風のぎこちなくメカニカルな動きから始まる彼女らの紅白でのパフォーマンスについて、詳しく検討する余力はないが、2、3、気になった点をメモしておきたい。ガキさんによる「ディアー!」の見る者を惹きつける表情、その迫力。それはオリジナルである飯田圭織の天然とも、吉澤ひとみの開き直ったそれとも違い、「モーニング娘。とは何者なのか」ということを自覚的に表現する。新垣里沙は、その表情だけで、『LOVEマシーン』と言う楽曲が本来持っていた革命性、しかし使い古されるなかですり切れて色あせてしまった革命性を、今の時代に見事に蘇生させる。われわれは、この「ディアー!」が、それを吉澤ひとみから直接受け継いだ──はずだった──あの娘による「ディアー!」であれば、どんなに嬉しいだろうか、照れくさそうにしかし頑張ってそれをやり切り、そして、気恥ずかしそうに顔をくしゃくしゃにするあの娘の笑顔が見られなかったことを、寂しく思わずにはいられないのだが、その欠落感をも忘れさせるほどの鬼気迫る表情を新垣里沙は見せていたように思う。そして、その直後に続く、道重さゆみの「Disco!」という掛け声。ふだんであれば、アイドル的な「可愛らしさの記号」をあえて「ぶりっ子」的に過剰に表現することで、そこに黒々とした批評性を産み出す道重さゆみだが、その彼女の声は、ボコーダーを介することで、異形の声に変調させられていたのだった。そのことの意義は、明確に言い表すことが難しいが、だからといって看過されていいものではなく、何らかの意図があるように思われた。しかし、あれは、本当に道重さゆみの声だったのだろうか? それはもしかすると「つんく声」だったのではないだろうか(脳内妄想)。そして、小春の堂々たる主役ぶりと、ジュンジュン、リンリンの誇らしさと自信と新鮮さに溢れた躍動感ある動きもさることながら、かめヲタの筆者は、当然ながら、かめちゃんの楽しそうな笑顔と元気いっぱいのえりもも、これさえあればなんとか来年も生きていける、2008年も亀井絵里を心の支えにして、亀井絵里と共に生き抜いていこう、と思い、またしても20歳も年下の小娘にすっかり励まされてしまった自分に、「コイツめー」と軽くツッコミを入れ、額をコツンと叩くのだった。




2008.01.17(木)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第36回12.08(土)【簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第36回12.08(土)【簡略版】
 ようやく更新しました。
 今回も大傑作です。垣LOVEさん、初採用、おくればせながらおめでとうございます。素晴らしい盛り上がりでした!
 ……さてと、借金はいくつだ?(笑)

 ノノ*^ー^)<狼でも「お前は書き起こしをしろ」と言われるわ、散々ですねー(笑)

2008.01.25(金)
■REMEMBER FUJIMOTO MIKI! 2008.1.10、CBC『今夜もうさちゃんピース』、2008.1.14、CBC『Guts10☆ガッタス!!』

 2008.1.10、CBC『今夜もうさちゃんピース』で、藤本美貴の歌声が流れた。選ばれた曲は、「冬にぴったりの曲」(さゆ)である、『寒いから冬だもん!〜どうもこうもないっすよミキティ〜 』(藤本美貴 With 岡井千聖&萩原舞〈℃-ute〉)
 冬に相応しい曲ならハロプロ曲の中にいくらでもあろう中での、この選曲には、CBCは藤本美貴を忘れない、という強いメッセージ性が感じられる。
 この曲は、冬にまつわる曲集であるアルバム『7.5冬冬モーニング娘。ミニ!』のなかで、唯一、「寒いからフトンから(部屋から)出たくない」という、ちょっとネガティブで、ちょっとババくさく、それだけにリアルで可愛らしい女の子の姿を描いた曲だ。その歌詞は、ある意味で、アルバム中もっともモーニング娘。らしい面白みを持つ。それを最年長の藤本美貴が歌い、しかも、若々しいユニット、℃-uteからゲストのチビッコ2人が加わり、ババくさいミキティに対してツッコミまで入れるという、念の入れようだ。(この2人は、℃-uteの初のコンサート(2007春)で、藤本美貴の『会えない長い日曜日』をカバーしてもいる。岡井は「尊敬するハロプロの先輩」として藤本美貴の名を挙げているし、萩原は、コンサートなどで「ハギティ」と自己紹介している。)
 「寒いから出たくない・・・」厳寒の北海道真ん中らへん出身のクセに、「寒いから」といってフトンから出てこないミキティ。そのフトンを「どうもこうもないっすよミキティ」と言いながら、ハロプロ最年少の萩原舞が剥ぎ取る。「ハギティ」がフトンをはぎてぃ。これは、お部屋にこもって長すぎる冬ごもりを続ける藤本美貴への、「いい加減出てこいやー」というメッセージ、だろうか?
 「運命自ら開かなきゃ/春が来ないよ」彼女を尊敬する岡井千聖が、藤本美貴を激励する。彼女の明るい「春」を導き寄せようとする。
 「希望の花を/美しく咲かせてみる」サビの旋律の冒頭4音(「希望の」=ミミファソ)は、ベートヴェンの第九交響曲の4楽章、有名な《歓喜の歌》の冒頭と同じメロディーだが、残念ながら、たったの4音では引用ともパクリ(剽窃)とも言い切れない。ただ、それでも、希望に溢れ、理想を高く掲げるという感覚は、この4音からも伝わってくるように思える。
 「何かの時は友達に/甘えるとしましょう」例えば、ガッタスの試合の時だとか。いまこそが、その「何かの時」なのかもしれない。
 「そう 私 白いスノードロップ」その花言葉は「希望」。

雪の化身のような花は古くから人の目を集めてきたのでしょう、スノードロップにはさまざまな言い伝えが残されています。…(中略)…いわく「アダムとイブがエデンの園から追放された時、雪が降りしきっていた。永遠に続くかと思われる冬に絶望して泣きじゃくるイブを慰めるため、天使がひとひらの雪に息を吹きかけた。それは地に落ちて春の兆しのスノードロップとなり、そして≪希望≫が生まれた」。スノードロップの花言葉は「希望、慰め」です。
『草木図譜』:スノードロップ(ガランツス・エルウィジー)より引用

 この曲で歌われた「希望」は、本来、「新しい、誰かとの出会い」「恋の始まり」を意味する。しかし、今、この時点で、藤本美貴が「わたしは白いスノードロップだ」と歌う時、その希望の意味は、それとは別の、明確な姿を取って、聴く者の胸に迫ることだろう。スノードロップが咲くとき、永遠に続くかと思われる絶望的な冬は終わりを告げる。この花が意味する「希望」、それは春の訪れ、藤本美貴にとっての。この曲を歌う者は「希望の花」である。希望の花の明るい未来を私達は信じていよう。少なくとも、CBCは、こんうさスタッフは、道重さゆみは、そういう願いを込めて、この曲を新春に放送したのだろう。そう信じることができる。

 その四日後の2008.1.14、同じCBCの『Guts10☆ガッタス!!』では、ガッタスの合宿での思い出として、紺野あさ美と里田舞が、藤本美貴とのエピソードを披露した。サトタ、こんこん、ミキティの三人が、一夜限りの「カントリー娘に紺野と藤本(無所属)」を再結成し、カラオケで「ハニーパイ」を熱唱したとのこと。
 三人とも、ちゃんと踊れたのだろうか?
 それとも、もう、すっかり忘れちゃってグズグズだったろうか?
 この三人が、ウーロン茶を飲みながら(うそつけー)、「踊れねー」「忘れたー」「体が動かないよー」と言いながらワイワイ騒いでいるところを想像すると、超萌える。
 ともあれ、こんみきはガチ!
 紺パパとミキティもガチ!(あまり関係ない)
 そしてなにより、CBCと藤本美貴はガチ!

 REMEMBER FUJIMOTO MIKI!
 藤本美貴を忘れるな!
 LIBERTAD POR MIKITTY!
 ミキティに自由を!




2008.01.30(水)
■REMEMBER FUJIMOTO MIKI! =補足=

=補足=

 『寒いから冬だもん!〜どうもこうもないっすよミキティ〜 』はAメロがAs-Dur(変イ長調)で開始し、その後、大胆かつ変態的な和声進行(にも関わらず少しも不自然ではない!)を経て、サビではD-Dur(ニ長調)に至る。和声学的には、As-DurとD-Durは増4度関係にあり、もっとも近親関係が遠い遠隔調同士である。このような挑戦的な調性設計は、ポップスの楽曲では異例中の異例だと言えるだろう。
 そして、つんくは、その鋭い対照性を示す2つの調性に、まさに対照的な意味内容の表現を担わせていると言えるのである。つまり、As-Durは雪に覆われた絶望的な冬、D-Durは希望の花の咲く春、という対照的な意味を担う。そして、紆余曲折の果てにたどり着く、この希望のD-Dur(ニ長調)は、まさに、ベートーヴェンの第九交響曲の《歓喜の歌》の調性でもある。
 (なお、D-Durはバロック時代古典派時代を通じて、神の栄光を表すもっとも輝かしい調性とされていたことを付記しておく)

Freude,shöner Götterfunken,Tochter aus Elysium,
喜び、それはうるわしき神の炎、絵里の住まう天上のおとめ、
シラー『歓喜へのオード』(ベートーヴェン第九交響曲第四楽章より。痛井ッ亭。訳)

2008.01.31(水)
■メンバー論:高橋愛編

 久々に、メンバーたちが存分に魅力を発揮できた、2008.1.6のハロモニ@マナー対決(「乙女の品格」という、パクリのそのまたパクリの品格のかけらもないサブタイトルが付いていたのだが、それはさておき)での高橋愛は、とりわけ素晴らしかった。冒頭のハンバーガー対決で、まず新年初の対戦者として愛ちゃんの名が呼ばれたとき、さゆれなは口々に「やっぱり愛ちゃんだ、2008年も」「あー。だよねえ」と嘆息した。それは、今年もハロモニ@は愛ちゃん激推しエコヒイキ路線継続なの?という魂の叫びだったのだが、もちろん、その通りなのである。中澤裕子とも飯田圭織とも違って、われらが高橋愛は、リーダーになっても、まとめ役を務める気もなければ、一切後ろに下がりもしないのだ。おそらく、一歩引いて後輩を前面に出すように、などとは誰からも指示されていないだろうし、本人も、後輩に気を遣うつもりなどさらさらない。それ以前に、あえて後ろに下がるまでもないという説もあるが、仮に、ガラにもなく空気を読んで一歩下がろうにも、おそらく、下がりかたも分からないのだし、だいたい、後輩を押しのけて自分が前に出ているという意識すらないのが愛ちゃんなのだ。究極の自然体。そのまんまの、ありのままの居かた。広場の真ん中にデンと丸太が転がっているかのような、月面に鎮座するモノリスのような、ふてぶてしい存在感。それが高橋愛の得がたい持ち味。
 ここ1、2年だろうか、ようやく福井弁を解禁して、自分らしさを素直に表現するようになった愛ちゃんは、とても魅力的だ。新年のハロモニ@ではそれが典型的に現れていた。あのお行儀の悪い自由奔放な食べ方。唖然とするメンバーに「いつもの愛ちゃんだ」「遊びに行ったときの愛ちゃん」と言わしめ、国王に「何故」と問われて「あたしあんなんです」と応える。れいなに「でもマナー対決ですよ?」と突っ込まれて、ようやく気が付いたかのように、「おぉ! そうだよねえ!」そこに、一切の計算はない。企画の趣旨も、チームの勝ち負けも関係ない、ただ、ありのままの自分をさらけだせばいいのだという深い確信だけが、その笑顔にはみずみずしく漲っているのだ。真のKY、真のぽけぽけぷぅ(言うまでもなく肯定的な魅力としての)は、愛ちゃんだ。普段そう言われることの多い亀井絵里のキャラはむしろ、意図する計算が複雑すぎるために、自分の演算処理能力を超えてしまい、プログラムが暴走したりとんでもない計算結果が出たりして、結果的にぐずぐずになってしまうところが、その魅力の核心なのだ。ワケわからんなー。
 しかし「訛りは抜けたんです」と言い張り、福井弁を封印していた頃の愛ちゃんはこうではなかった。ありのままの自分を晒す勇気などなく、「理想的なアイドル像、アーティスト像」を自ら設定して、その貧しい鋳型に自らを流し込み、せっかくの個性を封殺していたのだった。(おそらく伝説の「愛ガキ二人ゴト」は偉大な例外であり、そこでは盟友新垣里沙が愛ちゃんの真の魅力を掘り起こしてファンに知らしめてくれたのだった。その個性とは、「人の話は適当に聞き流すが、自分の話を聞いてもらえないとムクレル」という、可愛らしい女性らしさに満ちたものだったが、残念ながら、それ以後も、高橋愛自身が積極的にその魅力を打ち出そうとすることは、長らくなかった。)
 自らの魅力を隠し続けた高橋愛は、にもかかわらず、自ら限定した領域(アーティスト)のなかでは、他を圧する大活躍をしてきた。安倍なつみ卒業後のヴォーカルユニットとしてのモーニング娘。の中心にはいつも高橋愛がいて、先頭に立ってグループを牽引してきた。モーニング娘。の歌声とは、悔しいかな、ほとんど高橋愛の歌声である。というのは言いすぎにしても、その、やや暗い声質と、情感と力感のバランスが取れた安定感のある歌が、その優等生的で律儀な(古風で田舎くさいとも言える)歌いまわしが、モーニング娘。の「うた」を決定付けてきたと言っても過言ではないだろう(おそらく藤本美貴の奔放で明るい歌唱だけが、高橋愛の声を相対化し、中心を多重化する力を持っていたのだったが、それも望めなくなった今、高橋愛の歌声に拮抗できる者は残念ながらいない。歌い手としてのモーニング娘。には、いまなお高橋愛を後ろに下げる余裕など1ミリも存在しないのだ。これは危機ではないのだろうか)。
 そのように、アーティスト班としてはほとんど満点でも、バラエティ・お笑い班としては限りなく零点に近い存在=お客さん=壁の花として、長らく自らを規定してきた高橋愛だが、しかし、今はそうではない。もう彼女は自分の素のままを晒すことを恐れない。ありのままの自分の魅力を信じられるようになった彼女は強い。立場的には最年長でリーダーという管理職ポジションに押し上げられてしまったものの、バラエティ的な方面で自分の魅力を打ち出すべきアイドルとしての高橋愛は、まさに、これからの人なのだと思う。
 彼女のリーダーとしてのありかたも実に面白い。就任時は「アットホームなモーニング娘。を目指す」と言っていたが、その方法論は、ほぼ完璧に、自由放任。ほったらかし(たぶん)。先輩らしく抑圧的に後輩を締め上げる面倒な役回りは、全部「サブちゃん」こと新垣里沙に丸投げ。サブちゃんはつらいよ、とも思えるが、実のところ、それこそが適材適所なのだろう。全員一丸となって目標を目指すというありかたは職場的であり、全員がそれぞれ自由に自分らしくいられることこそ家庭的=アットホームであるならば、高橋愛の放任主義はまさに目指す方向にふさわしい。
 そして、六代目リーダー高橋愛の時代になって、モーニング娘。は、上下関係重視の体育会系グループから、全員横並びのライバル的関係である文化系的グループという方向に、より一層シフトしたのだと言えるかもしれない。その開放的な環境の中で、高橋愛が率先してとんでもない個性を発揮すれば、6期の面々はうかうかしていられなくなる。そんな状況を新垣里沙は誰よりも面白がり、7期以下の新人達も自由な空気の中で、大胆に自分の魅力を出して暴れまわるだろう。高橋体制の下、全員が自由に魅力を発揮し、その相乗効果で、モーニング娘。は、ますます面白くなる。面白くしかなりようがない。

||c| ・e・)|<でも個性を活かすことと、欠点を直さないこととは別だからね、愛ちゃん?!
川*’ー’)<あらあ! そうだっけぇ!

2008.02.07(木)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第37回12.15(土)【超簡略版】を更新
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第38回12.22(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第37回12.15(土)【超簡略版】
 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第38回12.22(土)【超簡略版】
 …………更新しましたああああああ。
 ……もう、借金を数える気力もなく。こうして多重債務者への道を転げ落ちるのですね……(笑)

 ノノ*^ー^)<『亀井絵里写真集全集』発売決定!
 ノノ*^ー^)<って、自分で盛り上がるの、切ないんですけどぉ(笑)

 (メモ)
 ・『恋ING』再開。
 ・ガキさんについて、5期について。執筆中。難航中。
 ・ヨーマさんの偽私小説が素晴らしすぎる。掲示板参照。
 ・日記タイトル、変更を考えながら、もう二月になってしまった……
 ・サイト名変更?

2008.02.12(火)
■藤本美貴23歳バースディメッセージ企画

 美貴ちゃんのお誕生日、目前に迫っております。おくればせながら企画に賛同させていただきます。
 藤本美貴23歳バースディメッセージ企画(管理人:もっちー。様)
 もっちーさんの呼びかけです。2008年2月26日で、藤本美貴さんが23歳の誕生日を迎えます。/ガッタスとして頑張っている美貴ちゃんに・・・/ライブのステージに立つ美貴ちゃんを願って・・・/誕生日祝いと、今後の活躍を願ってメッセージを送ろうというメッセージ企画です。
 痛井ッ亭。もメッセージを送ろうと思います。
 皆様もどうぞ送ってあげてください。
 わたしたちの愛を伝えましょう。

2008.02.14(木)
■藤本美貴再ソロデビューっ!!

 思いがけないバレンタインデーの贈り物が舞い込みました。
 ミキティ、ソロ歌手として再デビューです。
 待ちに待った復活です!

<藤本美貴>「吾亦紅」の杉本眞人の新曲でソロ再始動 堀内孝雄と競作「置き手紙」

2月14日6時1分配信 毎日新聞

 元「モーニング娘。」の歌手、藤本美貴さん(22)が、「吾亦紅」が大ヒットした杉本眞人さん作曲の「置き手紙」で約5年ぶりのソロシングルを発売することが14日、明らかになった。同曲は、堀内孝雄さん(58)との競作で、藤本さんは「お母さんに『堀内さんに迷惑かけるんじゃないわよ』ってクギされちゃいました。新しい藤本美貴を応援して下さい」と意欲を見せている。
<藤本美貴>「吾亦紅」の杉本眞人の新曲でソロ再始動 堀内孝雄と競作「置き手紙」(毎日新聞) - Yahoo!ニュースより引用

 ミキティがやる気を出しているようで、嬉しいです。
 このまま曖昧に引退、という最悪の事態は回避され、美貴ちゃんが今後も歌い続けていけることが分かりました。
 それが何より嬉しいです。
 美貴ちゃんは、2月に発表された公式写真の中のコメントでこう書いていました。
 又、1つ年を取ってしまいました...でも!! 変わらず、みなさんの愛のた〜くさんもらって頑張ります!! みき。
 そのコメントを書いたときにはおそらく今回の歌の件は決まっていたのでしょう。その言葉を信じていてよかった。いかに無神論者とはいえ、こういうときだけは「信じるものは救われる」とか言いたくなりますね。だって美貴ちゃんは女神だから!

 もっとも、以下の記事に出てくる「アダルト歌謡」という表現は、少し気に掛かるものもあるのですが。

元祖・ミキティ、アイドル捨てた!競作アダルト歌謡で再出発

 元モーニング娘。の藤本美貴(22)が5年ぶりにソロ歌手として再始動することが13日、発表された。新曲は4月23日発売のアダルト歌謡曲「置き手紙」。「吾亦紅(われもこう)」をヒットさせた歌手、すぎもとまさと(58)が作曲した。昨年5月にお笑いコンビ、品川庄司の庄司智春(32)との熱愛が発覚し、モー娘。を脱退。音楽活動を自粛していたミキティが、アイドルを脱し、アダルト歌謡路線で再起を賭ける。

 ミキティがアイドルを捨て、これまでのイメージを180度転換するアダルト歌謡路線で本格歌手をめざす。

(中略)

レコーディングは今月上旬。すぎもとの立ち会いのもと行われ、藤本は20代女性のひたむきな恋の切なさを歌い上げた。すぎもとは「思っていた以上に声質がよかった。彼女のこの雰囲気、なかなかいい」と絶賛。

 藤本も「本当に難しい曲でしたが、すぎもとさんが『♪料理、掃除下手な私…ってところは少し笑いながら言うくらいがいいよ』と、分かりやすく指導していただきました」と振り返った。

(中略)

 藤本の先輩、中澤裕子(34)はモー娘。時代にグループでポップスを歌いながら、ソロでは堀内孝雄が作曲した「カラスの女房」で演歌歌手としてデビュー。4枚目のシングル「上海の風」からポップス路線に転向した。

SANSPO.COM > 芸能より引用

 記事の最後の部分で、わざわざ中澤裕子が演歌からポップスに転向したことが触れられています。
 おそらく記者自身も「アダルト」路線に、もやもやしたものを感じたのでしょう。そして未来の可能性のことを記しておきたかったのでしょう。きっとこの記者はミキヲタに違いありません(笑)
 中澤裕子の『東京美人』は29歳の時の曲、『強がり』は31歳です。美貴ちゃんはまだ今年23歳になろうかという若さ。しかも、もともとビートの利いた歌を得意とする人ですから、やがて間違いなくポップス/ロック路線へと復帰してくると思います。その点は、おそらく心配ないでしょう。

 恋愛を諦めることなく、歌手としての再起をも果たす美貴ちゃんは、一世一代の大勝負に勝ったのだ、と言ってもいいでしょうか。いいですね。言っちゃうぞ。美貴帝様大勝利オメ!
 表舞台から姿を消していたのが大人の事情なら、今回の復帰もまた大人の事情かもしれませんが、そんなこたあ知ったこっちゃないです。
 とにかく、わたしたちとしては、一安心してもいいのでしょう。
 そのあとのことは、また、そのときのこと。

ノノ*^ー^)<だから記念日に踊らされるのはよくないとあれほど言ったのにこれですよ。

从VvV从<てか、痛ちゃん、ネガティブな長文をいっぱい下書きしてたのに、全部ボツになってさ、今頃泣いてるんじゃね?

ノノ*^ー^)<あー、お誕生日メッセージを書き直すのもめんどくさい的な?

从VvV从<まあ、かめちゃんならメッセージを下書きすること自体、ありえないけどね。

ノノ*^ー^)<それは認めざるをえませんね。





2008.02.15(金)
■反古になった誕生日メッセージ

 ソロ歌手としての念願の再デビューが決まるまでの、この約9ヶ月間、美貴ちゃんが、私生活での愛を守りつつ、その一方で、どれほど辛い針の筵の上に座り続けなければいけなかったか、想像するに難くない。その長い長い待機期間を、会えない長い日曜日を、美貴ちゃんは白っぽいスケジュールを睨みながらも、決して諦めることなく、未来を信じて耐え抜いたのだと思う。そして、再び陽のあたる場所へ、スポットライトの元へ、美貴ちゃんは帰ってくる。美貴ちゃんと、我々美貴ヲタは、ともに長い夜を超え、深い闇を超え、今、新たな日の出を迎えようとしている。試練の時を乗り越えた彼女が、大輪の花を咲かせるだろうことを、我々は疑わない。おそらく彼女は、一回りも二回りも大きくなり、大天使美貴帝様となって、ふたたび我々の頭上高く降臨することだろう。むしろ今や、困難な恋愛を貫き通した彼女こそが、愛を戦い抜いた彼女だけが、本当の意味で、心の底から恋愛を肯定する歌を歌える存在なのかもしれないとすら思える。
 ……という訳なので、彼女の復帰がいつになるのか、それどころか復帰があるのか、もしかしてこのまま引退してしまうのではないのか、と、果てしなく続く不安の中で、彼女に宛てて書いた誕生日メッセージは、無用の長物と化したが、書いたものが無駄になってくれて、実に喜ばしく、すがすがしい。久々に晴れやかな、穏やかな気分が、心底から沸き起こってくるのを感じる。そこで、不幸の鍋底にこびりついていたヲタが、どんなメッセージを綴っていたのかを、敢えて人目に晒して笑いものにするのもまた一興かと思い、以下に、宛先を見失った哀れな迷子のメッセージを掲載しておくことにする。

 ノノ*^ー^)<は、廃物利用?
 从VvV从<いやいや。資源の有効活用、リサイクルってことにしてあげようよ。
 ノノ*^ー^)<まー時代はエコですからね。エコエコアザラシ。
 从VvV从<それ、古いうえに間違ってるから。
 ノノ*^ー^)<ま、まあ、とにかく、これで更新労力削減目標達成も夢じゃないですよ?
 从VvV从<誰も更新を手抜きしろとか言ってないし。

藤本美貴23歳の誕生日メッセージ(反古)

 美貴ちゃん!
 なにはともあれ23歳ですね、お誕生日おめでとうございます。
 われらが女神、美貴帝様におかれましては、トシ相応?の粋なオンナっぷりにますます磨きを掛けていらっしゃることと思いますが、なにせ、メディアで美貴帝様のお姿を見ることが出来ないので、さびしくも、不安にも思っている次第です。マジで。
 毎日、元気に、過ごしてますか?
 家族、恋人、心を許しあえる友達に囲まれて、誕生日を楽しく、平和に、幸せを感じながら過ごせたことと信じます。ファンとしては、美貴ちゃんの笑顔を想像して、遠くから思いを馳せることしかできません。そして、今日も美貴ちゃんが笑顔でありますように!

 わたしは、モーニング娘。応援系のサイト(La deconstruction des idoles)をやっています。
 去年の、美貴ちゃんの突然のモーニング娘。「脱退」以降、ほとんどひたすら『ミキ受難曲』という文章を書き続けていました。そして、美貴ちゃんらしく生きる美貴ちゃんを必死に擁護してきました。ひょっとしたら、美貴ちゃんの目にもとまっていたでしょうか。
 すべてを棒に振ってでも「女の子の全身全霊の覚悟」で恋愛に生きる姿は美しいと思います。人間として尊敬できます。
 でも、そのおかげで(?)、某匿名掲示板なんかでは「プロフットサル選手」だなんて呼ばれてしまって、ちょっと「とほほ」な感じですけど(笑)、まあ、それも悪くはないかな、と思ってます。人生、山あり谷ありですから。
 でも、なんとしてでも、どんな形であっても、もう一度、美貴ちゃんが歌う姿を、ファンの前で、メディアのなかで、スポットライトの下で、見せてほしい!
 それが今、一番の願いです。
 恋をしながら歌も歌うこと、それは矛盾でしょうか?
 解決できない問題なのでしょうか?
 美貴ちゃんが歌うことが出来ない本当の理由がファンには分からないので、この、今の美貴ちゃんの状態を、どう考えればいいのか分からず、とても不安です。
 「アイドル」という不自由な枠は気にしなくていいと私は思います。美貴ちゃんが思い描くような、アギレラのような、一本立ちしたアーティストになってほしいと思っています。

 「寒いから冬だもん」ってことで、なかなかヌクヌクした布団から出てこられないのかもしれませんが、はやく美貴ちゃんの最高の笑顔と元気いっぱいの姿を、私たちファンに見せてほしいと思います。
 23歳の美貴帝様が、アクセル全開で、思い通りの活動を出来ますように。
 美貴ちゃんはその気力を失っていないし、いずれ、あらゆる障害を乗り越えて、ふたたび笑顔を見せてくれると信じています。

 どうもこうもないっすよ! みきてぃ!


 La deconstruction des idoles
 http://www.nextftp.com/KonnoAsami/
 痛井ッ亭。

 ……という訳で、一番の念願がかなった今、不用になった反古のことはこれで綺麗さっぱりと忘れて、新たに、喜びと希望に溢れた誕生日メッセージを、リアル226な誕生日までにゆっくりと書き上げたいと思います。喜びを、脳内美貴ちゃんと分かち合いながら。

 ノノ*^ー^)<次回作、「反故になったネガティブ更新」に御期待ください!
 从VvV从<誰も期待してないし、それ読みたくないから。

 =追記(&リスペクト)=

一つは、元は美貴ちゃんの事務所の大先輩の堀内孝雄さんの新曲として準備されていたこの曲を、堀内さんとの競作という形で美貴ちゃんに勧めてくださったスタッフの方がおられたという事です。
美貴ちゃんの身近に、今も彼女の事を大切にしてくれている人たちが居るって事が、とっても嬉しかったんです。
そしてね、美貴ちゃんが「歌いたい」って気持ちをずっと忘れずに持ち続けていてくれた事が、最も嬉しかったんです。
アンジェラスさん『狂熱の娘団。』「セットプレー」より引用

 アンジェラスさん、まったく同感です。
 こんな逆境のなかでも、藤本美貴を見捨てないで待ち続けたファン、そして仲間達、スタッフさん達、大勢の人々の思いが、彼女を支えてきたし、そしてそのたくさんの思いに、彼女は間違いなく応えてくれることでしょう!

 そして、だいちょさんも、美貴帝様復帰を祝う熱い更新をされています。その中で、美貴ちゃんが尊敬するクリスティーナ・アギレラの『Stripped』の歌詞が引用紹介されています。それはまさに藤本美貴の精神を象徴するかのような歌詞でした。必見です!




2008.02.16(土)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第39回12.29(土)【超簡略版】を更新
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第45回02.09(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第39回12.29(土)【超簡略版】
 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第45回02.09(土)【超簡略版】
 更新しました。
 #40,#41,#42,#43,#44と、5回分後回しに。

2008.02.19(火)
■世界を覆う非人間性の闇について

 これは一般論だが、自分の元彼女を売るような人間は、地獄があるとしたら確実に地獄に落ちるだろう。また落ちるべき人間である。そうして得た汚らわしいはした金は、それを得た当人の人間性を抹殺する。その金を得たという事実が、その男から、真の幸福や人間らしさを永遠に奪い去るのだ。永遠に、という言葉は残酷だろうか。あるいは。しかし人間は取り返しのつかない罪を犯すこともある。それをすることが人としての終りを意味するような罪がある。どうしたら自分が犯した罪を償えるのかを、死ぬまで考え続ける以外に、その男が生きる道はない。
 これも一般論だが、人の弱みをネタにしてボロ儲けを目論むような出版社には、誇りも良識も微塵もないと言うべきだろう。そうして儲けた金でいい暮らしをする出版社社員とその家族たちは、そのいい暮らしぶりが、犠牲者達の涙と苦しみによって築き上げられたものであることを、片時も忘れるべきではない。
 人の不幸のうえに富を築き上げ、ぬくぬくと幸福を感じていられるような人間には、人間的な心や想像力が欠如している。この世界の不幸の増大に加担しながら、その非人道性、反道徳性には都合よく目をつぶって、物質的表面的な豊かさ──その豊かさは、精神的な貧困と荒廃によって購われたものだ──を享受しようとする人間がいるかぎり、この世界は決してまっとうな世界にはならない。腐った世界、狂った世界が果てしもなく続くばかりだ。
 このような人間達は、本来なら、激しい良心の呵責を一刻一刻感じ続けるべきだし、死ぬまで針の筵の上に座り続けるべきことを自覚すべきなのだが、卑劣な行為をして恥じない人間というものは、痛みを感じるべき感受性を、そもそも欠いているものだ。そのような想像力の欠如、他人の痛みへの共感の欠如が続くかぎり、この世界を覆いつくす闇が晴れることはない。しかし、我々は粘り強く批判を継続することで、この世界がいつかはまっとうな世界になりうるのだという希望だけは捨てずにいたいと願う。
 もう一つ、これも一般論だが、年端も行かない高校生が恋愛をしたとして、交際相手がろくでもない人間であることを見抜けなかったとしても、あるいは、数年後にろくでもない人間に成り果ててしまうことを予測できなかったとしても、どうして責めることができるだろうか。恋愛をすることは人間にとって自然なことだし、たとえそれで失敗して傷ついたとしても人生の肥しにはなる。恋愛をすることは、人が、自分を変え、強くなるための、自らの人生を輝かせるための重要な契機になりうる貴重な人生経験なのであって、決して否定されるべき事柄ではないのだ。たとえその子の職業が「アイドル」であれ、なんであれ。

2008.02.26(火)
■藤本美貴ちゃんへの23歳のバースディメッセージ

 美貴ちゃん、お誕生日、おめでとうございます。
 そして、ソロ歌手復帰、新曲発売決定、おめでとうございます。
 誕生日を前に、嬉しいニュースがあった、と喜んでいたら、さらに、舞台の主演が決まったという驚きのニュースまで。ほんとうにおめでとうございます!
 31歳の井川さんが体当たりで挑戦した舞台に、今度は23歳になりたての美貴ちゃんが挑むわけですから、並大抵の難しさではないと思いますが、「アイドルだから」なんて言い訳や甘えには逃げず、言葉どおり「舞台女優」として真正面からぶつかって行って、美貴ちゃんらしく、大勝利を収めてほしいと思います。
 正直、新曲の「アダルト歌謡路線」や、舞台の「花魁という役柄」に、不安を抱いているファンも多いと思います。
 でも美貴ちゃんは、それらをやりきることで、そんな不安をきっと吹き飛ばしてくれる、と信じています。
 美貴ちゃんにとっては、初体験の仕事で、苦労することが多いと思いますが、それを堂々とやりきってこそ、2007年、あなたの笑顔を見ることが出来ず、不安を抱えながらも、決して諦めずにあなたの復活を信じて待ち続け、応援し続けた大勢のファンの思いに応えることができるのだと思います。
 それを乗り越えたときにこそ、美貴ちゃんの本格的再始動、完全復活、さらなる快進撃の開始を確信して、美貴ちゃんとファンが心から喜び合えるんじゃないか、と思います。
 そして、難しい仕事だからこそ、やりがいも大きいはずだし、そこで大きな成果を出すことが、やがては、美貴ちゃん自身が思い描くとおりの活動ができる、いい環境へとつながっていくと思います。アギレラのように、堂々と、女らしく、強く、自分を表現できるアーティストへの道が、きっと開けると思います。

 23歳の記念すべき誕生日。
 家族や、心から許しあえる人たちに囲まれて、楽しく、平和に、幸せを存分に感じながら、お過ごしください。
 今日も、そして明日も、いつまでも、美貴ちゃんが笑顔でありますように!
 そして、23歳の美貴ちゃんが、アクセル全開で、思う存分、大活躍できますように!
 これからも応援しています。


 La deconstruction des idoles
 http://www.nextftp.com/KonnoAsami/
 痛井ッ亭。

 訂正とお詫び:メッセージ中「31歳の井川さんが体当たりで挑戦した舞台」とありますが、井川遙さんは現在31歳(1976年生まれ)で、舞台「HAKANA」に主演されたのは2002年、25歳の時でした。訂正して、お詫びします。
 掲示板で御教示くださったSTUKAさん、ありがとうございました。
 みなさんも、何か書くときは、よくよく事実関係を確認しましょう。←説得力ゼロ(号泣)。
 もう送っちゃったし。


 ノノ*^ー^) <アフターのフェスティバルですよ?
 从*・ 。.・从 <普通に、後の祭って言えばいいよね。
 从VvV从 <それなんてルー大柴さん?
 从VvV从 <ってか、みきへのメッセージだってのに、大失態だよね。
 ノノ*^ー^) <美貴様、口調がマジ。


2008.03.01(土)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第46回02.16(土)【超簡略版】を更新
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第47回02.23(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第46回02.16(土)【超簡略版】
 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第47回02.23(土)【超簡略版】
 更新しました。
 #40,#41,#42,#43,#44の5回分は、いぜん後回し。(号泣)

2008.03.07(金)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第48回03.01(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第48回03.01(土)【超簡略版】
 更新しました。
 #40,#41,#42,#43,#44の5回分は、いぜん後回し。
 来週はなんとか、2回分。

 (わたくしごと)
 トリップを新しくしました。
 痛井ッ亭。 ◆KXPPPNeoKY
 その意味は「カメックスはぽけぽけぷぅの新型KY娘。」です!
 ある意味完璧なトリップと自負しております!
 だからどうした? って話ですが(笑)

 ノノ*^ー^)<いいトシして、キショヲタ度を高めてどーするんでしょうか?

2008.03.12(水)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第49回03.08(土)【超簡略版】を更新
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第40回01.05(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第49回03.08(土)【超簡略版】
 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第40回01.05(土)【超簡略版】
 更新しました。
 残る借金は、#41,#42,#43,#44の4回分。

 (メモ)
 ・裏で色々と作業中
 ・新垣里沙的更新は8割方書き終えた。もう一歩。
 ・再開した「恋ING」がまた中断している。終りまで辿りつくのはいつ?
 ・ミキ受難曲はあと一回更新してとりあえず終了。

 ノノ*^ー^) <「誰か助けて♪」
 ||c| ・e・)| <新曲の話題作りにしてはでかすぎる釣り針だったね
 从*・ 。.・从 <一日一釣!

2008.03.21(金)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第50回03.15(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第50回03.15(土)【超簡略版】
 更新しました。
 借金、#41,#42,#43,#44の4回分は変わらず。

 (メモ)
 ・新垣里沙的更新は9割書き終えた。

2008.03.22(土)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第41回01.12(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第41回01.12(土)【超簡略版】
 更新しました。
 残る借金は、#42,#43,#44。一つ減らしました。

2008.03.24(月)
■『ミキ受難曲』最終更新 「反古となった断片集」

 藤本美貴が復帰を果たした今、彼女を擁護するべく書き溜めていた断片は既に無用の長物と化してしまい、それを敢えて今さら発表することは無意味だろうか。確かに、彼女には追い風が吹きはじめており、彼女の恋愛を肯定する声が大メディアのうえで堂々たる正論として語られるというきわめて喜ばしい状況すら生じはじめている以上、彼女の復帰を妨げる要因への批判として考え続けた思考の断片など、まとめることなく放棄しても構わないのかもしれない。
 しかし本当にそうだろうか。むしろ「アイドルと恋愛」を巡る桎梏、解きがたい矛盾は客観的にはいささかも解消しておらず、藤本美貴の復帰もまたそれらの解決の結果ではなく、ただ曖昧に、なし崩しに実現したものだと言うべきだろう。であれば、彼女を苦しめた事情を巡る批判は、今もなお粛々と遂行されつづけなければならない。藤本美貴は復帰したとはいえ、他のメンバーたちの誰もが、いつなんどき同じ憂目に遭うかもしれないという、悲しむべき・情けない・愚かな状況は、微塵も好転などしてはいないからだ。
 『ミキ受難曲』という表題を持つ文章がこれ以上書き継がれる必要はもうないかもしれないが、それは問題が解消したからではなく、問題が一般的・普遍的なものであることが明らかになったからにすぎないだろう。そこで、以下に『ミキ受難曲』として書かれようとしていた断片を、現時点での思いも含めつつ、書き記しておきたい。断片の執筆時期は、2007年10月頃で、筆者はアドルノの文章を集中的に読みながら、大衆文化批判、藤本美貴の個性とその社会化という問題、奴隷道徳の拒絶などについて考えていた。以下は、そのとめどなく彷徨い続けた思考の廃墟である。

 从V_V)<長い!

 文化産業においては、真の様式という概念は支配の美学的等価物であることが見通されるようになる。たんなる美学的合法則性という意味での様式の観念は、ロマンティックな後向きの幻想にすぎない。たんにキリスト教的中世だけではない。ルネッサンスにおいても、様式の統一のうちに表現されているのは、社会的権力のそれぞれ異なった構造なのであって、普遍的なものを秘めていた被支配者たちの暗い体験ではないのだ。偉大な芸術家と言われる者が、かつて様式をもっとも破綻なく完璧な形で体現していたためしはない。むしろ彼らは様式を、苦悩の混沌とした表現に逆う壁として、否定的な真理として、自分たちの作品に取り入れようとしたのである。
ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)「W 文化産業──大衆欺瞞としての啓蒙」(p269)より(強調は筆者による)

 作品の様式と、社会構造とは類比的であるこということ、社会批判=抵抗としての作品は、様式の中で自らを実現しなければならないが、その自らを規制する不自由な様式に対して抵抗しつつ自らを実現する、ということ。社会における人間性の歪みは、様式と作品との関係の歪みとして作品に反映される。そして、そのような作品こそが真に力強い作品であるということ。
 アイドルという様式と「藤本美貴」という作品の間の歪み。
 [2007.10.22]

 从V_V)<アドルノも長い!

 今日決定的力を振っているのは、体制のうちにひそむ必然性、つまり消費者を無視するわけにはいかないが、いかなる瞬間にも消費者には抵抗の可能性の予感を与えない、という必然性である。この原理は、たしかにあらゆる欲求は文化産業によって充足されうると考えることを消費者に命令するが、しかし他方では、消費者がそういう欲求の中で自己自身をもっぱら永遠の消費者、文化産業の客体としてしか経験しないように、あらかじめこういう欲求を調整することをも要求する。文化産業は、自分たちの欺瞞が消費者の欲求を充たすものであるかのように吹き込むばかりではない。それ以上に文化産業の意味するところは、消費者が、何であれ、与えられたもので満足しなければならない、というところにある。
ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)「W 文化産業──大衆欺瞞としての啓蒙」(p291)より(強調は筆者による)

 文化産業──われわれ大衆は、文化産業に完全に取り囲まれて生きている──は、われわれにお仕着せの文化を投げ与えるばかりではなく、われわれがそのお仕着せに完全に満足するようにわれわれ自身を形成し、調教して飼い馴らそうとする、われわれが抵抗の可能性を夢想だにしない次元にまで。絶対的に制度化された既製品文化のもとでしか生きられないわれわれの生自体が、絶対的物象化の結果である。
 [2007.10.22]

 (現時点でのコメント)  お前達ファンが、どれほど藤本美貴を愛していようが関係ない、藤本美貴は売りづらくなった、商売としてペイできなくなった、と、われわれ文化産業の側が判断すれば、もう、「藤本美貴」という商品の販売は停止せざるをえない。消費者の前には、新鮮な商品がずらっと並んでいるではないか、いつまでも古いモノにこだわったりせず、さっさと他メンなりベリキューなりに乗り換えればいいのだ、というのが、文化産業の論理であろう。
 この、生きた人を、商品として、モノとしてしか扱わない姿勢に、あくまでも抵抗する者こそ、ヲタでなくてはならない。なぜなら、愛する者がモノ化されるということは、我々自身がモノ化され、モノ扱いされることに甘んじることだからだ。「消費者」などというご大層な名を付けられ「お客様は神様です」というおためごかしで神棚に追放されることに甘んじるならば、それは人間として扱われることを諦めることに等しい。

 从V_V)<アドルノも痛井ッ亭。も長い!

 文化産業の地位が確固としたものになるにつれて、消費者たちの欲求は文化産業によって一括して処理されるようになる。消費者の欲求を文化産業は作り出し、操縦し、しつけ、娯楽を没収することさえできるようになる。
ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)「W 文化産業──大衆欺瞞としての啓蒙」(p296)より(強調は筆者による)

 文化産業は判断し決定した結果をわれわれ大衆に与える。アイドルファンはアイドルに処女性を求めるキモヲタであり、そのようにして男権主義的社会構造を温存すべきである。ビッチは男の敵であるという図式の象徴がアイドルである以上、アイドルの恋愛は徹底的に弾圧されねばならない……このようにして、われわれからは藤本美貴が没収されてしまうのである。
 [2007.10.22]

(以下のアドルノの文章は、まさに今現在の、ハロプロとモーヲタを巡る問題をアクチュアルに解き明かしている! つまり、文化産業を巡る問題は、『啓蒙の弁証法』が書かれた時代から、本質的にはなんら変わっていないということを意味する)

 浮かれているということは現状を承認していることだ。それはただ、社会の動きの全体に対して目をふさぎ、自己を愚化し、どんなとるに足らない作品でも備えているはずの、それぞれの枠の中で全体を省みるという逃げることのできない要求を、最初から無体にも放棄することによってのみ可能なのだ。楽しみに耽るということは、いずれにせよ、「それについて考えてはならない。苦しみがあっても、それは忘れよう」ということを意味する。無力さがその基礎にある。しかしそれが主張するような悪しき現実からの逃避なのではなく、残されていた最後の抵抗への思想からの逃避なのである。娯楽が約束する解放とは、思想からの解放であり、また否定からの解放なのである。「人々は何を欲しているか」といった美辞麗句風の問いの破廉恥さは、この問いが人々から主体性を奪うことを特にねらいとしていながら、ほかならぬその人々が思想の主体であるかのように呼びかけるところにある。かつて人々が娯楽産業に盾ついたところでさえ、今や彼らは、娯楽産業によってしつけられるままに唯々諾々と何の抵抗をも示さない。
ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)「W 文化産業──大衆欺瞞としての啓蒙」(p296)より(強調は筆者による)

 藤本美貴のいないハロプロに浮かれているということは彼女の社会的抹殺という現状を承認していることだ。われわれは、アイドルの置かれた現状、アイドルを取り巻く神話、女性蔑視を固定化する男性社会の童貞的感性の恥ずべき開き直りという、社会の動きの全体に対して目をふさぎ、自己を愚化しつづける。ハロプロを応援するというヲタ活動を通じて、己のファンとしてのありかたを反省するということは、本来逃げることのできない要求であるはずだが、われわれは、アイドルの可愛らしさ、日々娯楽産業から投げ与えられる消化しきれないほどの商品の渦に翻弄され、それに浮かれることに夢中で、その反省を最初から無体にも放棄する。もはや、藤本美貴についてくよくよと考え続けることはよそう。ここに初々しいベリや℃-uteがいる、ガッタスが美しい汗を流している、高橋体制のモーニング娘。がツアーをやる、新曲が出る、グッズが出る、ハロショには日々新しい写真が出るのだし、ファンは日々新たに提供される商品を摂取することにアクセクするだけで、精根尽き果て、反省する気力など残らない……そのように楽しみに耽るということを強要することで、娯楽産業は「それについて考えてはならない。苦しみがあっても、それは忘れよう」──「それ」は藤本美貴であり、あるいは”アイドル”という制度の非人間性でもある──と呼びかける。その呼びかけに応じることは、われわれの無力さの証しである。そのように娯楽産業の掌の上で浮かれている時、われわれは、悪しき現実から逃避しているのではない。われわれに残されていた最後の人間性の証し、残されていた最後の抵抗への思想から逃避してしまうのである。そして、われわれは、娯楽が約束する解放を受け入れ、思想から解放され、否定から解放される。われわれは主体性を放棄して、猿になる。しかし、心配は無用だ。われわれが何を欲しているかは、娯楽産業が決めてくれる、主体性などすでに無用の長物だ。今やわれわれは、娯楽産業によってしつけられるままに唯々諾々と何の抵抗をも示さない。「”モーニング娘。の約束”を破ったんだから」「他のメンバーに迷惑が掛かるから」「矢口だってしばらくは活動を休んだんだから」「”脱退”は自分で決めたんだから」「フットサルはしてるんだから干されているわけじゃない」「スキャンダルになった罰を受けるのは当然」…これらの発言から浮かび上がって来るもの、それはまさしく、メディアや娯楽産業の意図を受け入れ内面化し、彼らがあらかじめ設定した統計学上のカテゴリーに予定通りお行儀よく収まるクラスター分布となり、彼らの意のままに操作可能な変数の束となった、われわれ自身の姿に他ならない。その物象化されつくした姿に、人間の面影は残っているだろうか。
 [2007.10.22]

 以上、アドルノに導かれるようにして、藤本美貴、アイドル、大衆文化を巡る問題を検討してきたが、問題の根源はおそらく、文化産業(アイドル産業)の構造、その構造と相互依存的な関係にある「ファン」という名のアイドル消費者の男尊女卑的・処女崇拝的価値観にある。文化産業と、その消費者たる大衆は、互いに支えあい、依存しあい、拘束しあっている。文化産業が、己の利益の最大化のために教化してきたはずの消費者大衆は、逆に、文化産業の行動を拘束するものともなっている。もはや、文化産業の思いのままに大衆というモンスターを動かすことは出来ない状況も存在している。

 以下は、さらにまとまりのない断片:


・理論と実践の問題:アドルノはあの青年の異議申し立ての時代(1968年前後)、若い世代から、何故、政治的行動、アンガージュマンを引き受けず、理論的批判に留まるのか、という批判を浴びて、「理論的考察もまた実践の一形式である」という趣旨のことを述べ反論している。
 実践的な有効性はないとしても、理論的な問題の追及もまたなされねばならない。

 (アドルノの問題と自分を比較するのは、あまりにあんまりだろう。が、それはやはり相同形の問題なのだ。わたしの文章に藤本美貴を救うための現実的な実効性などないことは百も承知であるが、しかし、理論的に問題を追い詰める作業もまた必要不可欠であり、それはいつか現実的な抵抗のための足がかりとして役に立つこともあるだろう)

 ・根源的な問題 日本の世間の構造 権力構造 日本の社会は世間の複合体であり、世間は、西洋的な市民社会とは違って、一神教的価値観や、正義、論理、法などによって駆動されることはない。
 世間を駆動するエンジンは、私見では、「空気」であり、「流れ」であり、「顔色・腹」であり、「情」であり、そのすべてが、曖昧模糊としたものである。
 しかし、そこには、間違いなく、権力の構造、大衆を支配し、その行動を拘束する規範性がある。その権力構造は目につきにくいものだが、だからといって、世間を構成する民衆一人一人が対等に平等に「空気」を産み出し、世間を動かすような民主的な構造でないことは確かである。
 世間の「空気」は、論理で攻撃しても揺るがない。「情」に訴えなければ、「空気」は変わらないのである。世間に対して正義は無力でしかない。
 「アイドルは処女性を保つべき」「清純であるべき」という世間の空気、それは、反動的な差別的価値観に他ならないが、たとえ封建的と揶揄されようが、人権に反すると批判されようが、そのような西洋的な論理による攻撃では、日本の世間の「空気」は、ビクともしない。  その「空気」を変えるための有効な戦略を、未だ世界中の誰一人として、手にしていない。
 
 (藤本美貴を苦しめる言葉について)
・自ら脱退を決意したのだから藤本美貴の意思を尊重したいという言説
 実は一番冷酷、かつ悪質な言説
 それは、例えば、取調室で拷問の末に自白を強要され、証拠として刑事裁判に提出された検察官面前調書に、被告人の拇印があるという一事を持って、やすやすと証拠能力を認定してしまう、官僚的な裁判官の態度に、よく似ている。
 それは、大本営発表を鵜呑みにし、捏造された意気軒昂たる戦果に、能天気に舞い上がり、敗北への一本道を率先して突き進む愚かな帝国臣民に、よく似ている。

 そこに欠けているもの、それは、批判意識である。
 権力から与えられた情報が信用するに足るものであるかを、自らの経験、理性、知識、感性、直感、ありとあらゆる力を駆使して、その妥当性を吟味しようとする慎重な態度である。

 公式サイトの一片の文章、その発表を鵜呑みにして、「藤本美貴は自分の意志でモーニング娘。を脱退したのだ」「彼女の意志を尊重したい」と語ること。そこに、浅はかさ、皮相さを感じずにいることは、難しい。

 (現時点でのコメント)
 (結局はわからない真相)
 (ならば、藤本美貴の本質を救い、守るという方向で、解釈することが、自分にとってヲタの倫理であると思われた)

 藤本美貴の問題をスルーすること。矛盾に満ちた世界を受け入れること、抵抗することもなく=「所詮、世の中、人生、そんなもの」という奴隷精神の完成。


 「モーニング娘。藤本美貴」の死を容認し、受け入れることは、わたしたち自身が、もう一度「モーニング娘。藤本美貴」を殺すことである。そのとき死ぬのは、「モーニング娘。藤本美貴」だけではない。そのとき、私たち自身の良心が、誇りが、批判的理性そのものが死ぬのである。

 从V_V)<アンコール

 「モーニング娘。藤本美貴」の死を容認し、受け入れることは、わたしたち自身が、もう一度「モーニング娘。藤本美貴」を殺すことである。そのとき死ぬのは、「モーニング娘。藤本美貴」だけではない。そのとき、私たち自身の良心が、誇りが、批判的理性そのものが死ぬのである。

『ミキ受難曲』(終り)
2008.3.24

2008.03.28(金)
■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第51回03.22(土)【超簡略版】を更新

 ■Hello! Project Night 【GAKI・KAME】第51回03.22(土)【超簡略版】
 更新しました。
 借金は、#42,#43,#44。変わらず。

2008.03.31(月)
■名無しみきたんさんからのメールについて (『ミキ受難曲』補遺)

 24日に最終更新を発表した直後に、名無しみきたんさんから長いメールを頂きました。そのメールへの応答です。

 名無しみきたんさんからのメールについて (『ミキ受難曲』補遺)

 これで一応の総括としますが、もちろん解決としての総括ではなく、終ることのない問題の、矛盾の引受けとしての総括です。

 なお、これをもちまして「アイドルの脱紺築」の最終更新と致します。

 ノノ*^ー^) <エ、エイプリルフールは明日ですよ? え、え? フライング?

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